再び、森村喬さんのことに戻そう。森村さんは昭和12年(1937年)に学習院から東工大・電気科へと進む。卒業は太平洋戦争が始まる昭和16年、国際電気通信株式会社に就職。大卒クラスメートは16名。6カ月の寮生活が義務付けられ、同時に毎日半日間の授業が課せられた。その授業は、「今、考えると各大学からベストメンバーの教授が来られた。」と当時を振り返り、教授名をすらすらと思い出す。「授業以外では良く野球をやり、夜は新宿に繰り出した。」その一方では「第1級無線技術士の免許を取る必要があり取得したが、結局、本当の役には立たなかった。」と笑う。

余談になるが、この頃、主に東京地区で活躍されていたハム7名のリグ(無線機)を紹介した表がある。(日本アマチュア無線史-JARL発行)それによると、5人は14MHzで運用。森村さんのみ56MHz、もう一人は28MHz。7人の送信出力は、最低でも300W、最高は1500Wと当時許可されていた10W以下を完全に超えた大出力であった。

昭和15-16年頃に活躍されていたアマチュア無線局のリグの内容。---日本アマチュア無線史より。

昭和13年に『国家総動員法』が公布され、非常時(戦争)に向けて産業経済の規制が始まった。不要不急の製品の生産は禁止となり、また、為替管理も強化され、海外への送金は1回100円が限度となった。アマチュア無線用パーツの入手は困難となりつつあった。社会全体の空気もアマチュア無線をぜいたくな趣味と見る傾向も強まっていった。

昭和16年1月にはJARLは連盟員に対して、天候、気候、災害についての内容を送信することを原則として禁止する通達を出す。戦時体制に入り、敵国に国内の情報を知られることを防ぐためであった。このような情勢下にありながらもJARLはハムを増やすためのPRも進めている。森村さんは、笠原(J2GR)さん、斎藤健(J2PU)さんら6名と『短波無線アマチュア座談会』に出席し、アマチュア無線の普及のための活動をしている。

戦時中、森村さんが配属されたのは立川市にあった「多磨航空技術研究所」の神代(じんだい)分室だった。同研究所は、国際電気通信社内に神代分室、富士通内に中原分室、NEC内に玉川分室などを置いた。その頃の強い思いでは、日本の敗戦が濃くなってきた頃の首都防衛のシステム開発である。いわば防空システムの開発であるが、その開発のためにほとんど現地に泊り込む生活となっていった。

このシステムは伊豆半島、房総半島、水戸付近に合計7ヶ所に方向探知機(レーダー)を置き、茨城県・筑波山、箱根・二子山の山頂に中継局を設置、千葉県・市川市に本部を設けて、侵入してくる敵機の進路を補足し、味方の飛行機をぶっつけようというものであった。まさに、SS-FMによるVHF電波多重電信の新技術開発であった。システムの操作には全体で兵士一連隊編成の大人数でとりかかったが、それ以上に困ったのは膨大な数の真空管が必要だったことである。

当時の軍需省に申請したところ、数万本というその量の多さにびっくりしていたという。このシステムは完成し、本格的に稼動させようと考えていたところ、すぐに終戦となってしまった。このほか、敵機の来襲を無線で連絡し、その情報に基づき東京湾上空に気球を上げて敵機を引っ掛けようとしたこともあった。

このように、戦時中は軍属として無線通信の仕事にたずさわることになったため、森村さんには兵役は免除されていた。ところが、手違いが起こった。召集礼状が送られてきたのである。あわてて、研究所上部が取り消しを申請し、とりあえず、1日だけ入隊し除隊することになった。     
戦時中、森村さんが配属されたのは立川市にあった「多磨航空技術研究所」の神代(じんだい)分室だった。同研究所は、国際電気通信社内に神代分室、富士通内に中原分室、NEC内に玉川分室などを置いた。その頃の強い思いでは、日本の敗戦が濃くなってきた頃の首都防衛のシステム開発である。いわば防空システムの開発であるが、その開発のためにほとんど現地に泊り込む生活となっていった。

それでも、近隣の人たちが集まり出征式が行われ、餞別をいただき「千人針」(武運長久=手柄をたて続けることを祈る1種のお守り)ももらった。入隊したその日の夕方に除隊、夜には戻ってくることになっていたが「とうとうその日帰ってきません。まんじりともせずに待っていましたが、場合によっては正式に入隊してしまったのではないだろうかと心配しました。」と奥さんは当時を振り返る。結局、森村さんは翌朝帰宅した。

太平洋戦争中に日本軍が使用した94式3号甲無線機