そして、終戦。ハムは戦時中凍結されたアマチュア無線の再開に動き出す。その活動に森村さんも加わり、多方面への働きかけを始めるが、そのへんのいきさつは、他でも触れられているのでここでは繰り返さないでおき、再開運動の速さだけを指摘しておきたい。

昭和57年、再免許取得後の森村さんのリグ

終戦の余韻がくすぶっている頃に、ハム達は個人的あるいはJARLを通じて電波監理局への陳情を行う。9月には短波の受信が許可され、10月には東京逓信局からは、アマチュア無線再開についての意見を求めてきた。JARLは「アマチュア無線規則案」を作成して提出するとともに、JARL再結成準備会を東京工大で開催した。ともに終戦約4ヶ月後の12月のことである。

これらの再建活動には、森村さんの他、大河内正陽さん(当時J2JJ)、矢木太郎さん(J2GX)、多田正信さん(J2GY)、田母上栄さん(J2PS)などが加わった。しかし、アマチュア無線の認可権限は日本国からGHQ(進駐軍)に移っており、再開ができたのは昭和27年の7月であった。

昭和20年9月、ハワイ在住の日系2世の沖西利雄(K6CQV)さんが、空襲で焼け東京・成城に仮住まいしていた森村さんに郵便小包を届けてくれた。沖西さんとは戦前に何度も交信し親しい間柄になっていた「空の友人」であった。カリフォルニア米、チョコレート、子供靴などが贈られてきた。「苦しかった時代だけに、本当に助かりました」と奥さんは、当時を思い出して語る。その奥さんのお父さんがなくなられた時にも、沖西さんから小包が届く。米と線香が入っていた。「米に線香の匂いが染み込んでましてね、結局取れませんでした」と、森村さんもその頃を懐かしむ。

その沖西さんからの小包の中に細長い紙切れが入っていた。そこには「Ham speaks Ham’s language(ハムはハム語で話す)」とだけ書かれていた。森村さんは、それを見て「すばらしい言葉である。ハムという言葉を普及させよう」と決意、さまざまな機会にハムの言葉をPRした。「ハム」は、戦前にはハム仲間でしか使っていなかった言葉であるが、森村さんらの努力により少しずつ普及していった。ちなみに、昭和32年にJARLは国際地球観測年に協力することになったが、日本学術会議の茅誠司会長(当時、東大総長)が、その打ち合わせ会議の席上「食べるハムの他にもハムがあったのですか。」といわれた話が伝わっている。

戦後のJARL再結成大会は、昭和21年(1946年)8月11日に開催された。出席者は35名であった。大正15年、アマチュア無線制度がない時にJARLが発足したのと同様、この時もアマチュア無線の再開は許されていない時期での再建であった。ハムが常に制度に先行して活動してきたことになる。

この総会で会長には八木秀次さん、理事長には矢木太郎さんが選出されたが、森村さんは大河内さんら10名の理事のひとりに選ばれている。再建されたJARLは、昭和16年以前に私設無線電信電話施設許可を持つ者で、再度許可を得ようとする者を正員とし年間会費60円、免許を持たない準員は年会費50円と定めた。

また、事業としては (1)IARU(国際アマチュア無線連盟)の日本支部としての事務、(2) 機関雑誌および図書の発行、(3) 講演会・懇親会の開催、(4) 初心者の技術指導を行うことなどを決めた。森村さんは「CQ誌」の編集委員になり、送信機の製作記事を7回連載で執筆するなど、後に続く人たちのために力を尽くす。なかでも、ハムになるための入門書とも言うべき「ラジオアマチュアハンドブック」を中心になって発刊したが、好評となり売れ行きは好調であった。

「CQ ham radio」10号。この号からCQ出版の発行に移った。