森村さんが勤務していた国際電気通信株式会社は、戦時中に軍に協力したとして、戦後すぐに解散を命じられていた。その継続会社の形で新たに設立されたのが国際電気であった。設立は25年、当然、当時の日本では十分な仕事はなかったが、それでも、徐々に電力会社、新聞社、警察関連のFM通信機の開発、生産が増加し始めた。

働き盛りの30代半ばの森村さんにも会社再建の重責がのしかかってきた。アマチュア無線に時間を割く余裕はなくなっていった。やむを得ず森村さんはJARLの活動から身を引くことになる。

戦後のアマチュア無線免許の再開は昭和27年であったが、1級無線技術士の免許をもつ森村さんも新制度による資格を取得することが必要になった。そして、改めて、アマチュア局の免許を取得したのは、定年も過ぎた昭和57年(1982年)であった。「受験に当たっては、かって1対1で試験を受けた時のことが思い出され感無量でした。」という。

若い人たち数百人の中の一人として受験場に座った。再免許のコールサインは「JA1LKJ」。実は、森村さんにはこの時ひそかに狙っているものがあった。それは、キーやマイクから遠ざっていた時にも時々、気になっていたことであった。あれから50年。森村さんの「夢」に近い願にもなっていた。

それは、昭和10年(1935年)11月2日に交信した南アフリカ在住のドイツ人であるJ.J.フォン.ラべスティイン(当時ZU1T)さんとの再交信であった。戦後、ラべスティインさんがオン・エアしているのは何かで知っていた。そして、待望のその時がやってきた。昭和60年(1985年)9月8日午後11時22分(現地時間)のことであった。「久しぶりです。50年ぶりですね。」というと、先方も思い出してくれた。

J.J.フォン.ラべスティインさんとそのシャック

現在はZS1Hに変わっているラベスティインさんに、森村さんは新しい自身のQSLカードとともに、50年前に受け取った相手のQSLカードも同封して送った。折り返し届いたやはり新しいラベスティインさんのカードの裏には、お礼の挨拶とともに「今でも80mと160mに出ています。Taki(森村さんのこと)また、会おう」と書かれていた。恐らくは、他にはめったにないこのハプニングに、森村さんは興奮し、35年前の自作機、50年後の市販機との仕様比較品を作ってみた。「その表や、カードを眺めていると50年間の思いがよみがえり、1週間でも飽きません。」という。

ラべスティインさんの「左」昭和10年のカード(ZU1T)と、「右」昭和60年のカード(ZS1H)。

「昭和9年に免許を取得し、あれから約70年近く、私もラベスティインさんもそのうち“サイレント・キー”になりそうです。」と、歩んできた道を振り返る。森村さんが住んでいる現在の東京・世田谷区の自宅は、電波状況を考慮して西北に高い建物のない場所を選んでの新築であった。同時に、高さ15mのパンザマストを建て、八木ビーム・3エレメントアンテナを取り付けた。しかし、今年の5月「台風や地震の時に心配」と、上部を切断した。森村さんとアマチュア無線とのかかわりは、今では保管している膨大な資料を見ながら思い出に浸ることになった。

森村さんは言う。「10年ほど前に、故三田義治(戦前J2IS、戦後JH1XEO)さんから、米国のH.H.スキィリングさんの書いた著書“電波“のコピーを頂いた。そこには、ひとたびアンテナから発射された電波は宇宙空間に向かって無限遠の距離に向かって旅を続けることが書かれていました。S・K(サイレント・キー)が空中に放ったCQ・DXのシグナルは、在りし日のままに生き生きと宇宙のどこかを進行しているに違いありません。まさに、S・Kの電波は不滅の生命をもっています。」