[戦時下の少年時代] 

「満州事変」勃発の昭和6年(1931年)生まれの村松さんは、その後、昭和12年(1937年)の「日中戦争」を経て、16年(1941年)の「太平洋戦争」そして20年(1945年)の終戦まで、戦時下で幼少期、少年期を送ることになる。父親は「火除け」の神様として知られている静岡県・春野町の秋葉山の麓で製材会社を営んでいた。

事業は明治時代に祖父が興したもので、建材として商品価値の高かった「天竜の美林」を伐採、天竜川を利用して筏にして流し、河口に近い中の町に製材工場を置いていた。販路は関東、関西と広範だったが、昭和初期の恐慌の影響を受けて事業を縮小、村松さんが誕生したころは文教地区でもあった浜松市の高町で文房具店「東洋堂文房具店」を営んでいた。

この場所は「三方ケ原台地の南端で南は浜松市内越しに、はるかに太平洋を、また、ほぼ東に富士山が見える高台だったため、後年アマチュア無線を始める時に多いに役立った」と村松さんは言う。昭和12年(1937年)村松さんは鴨江小学校に入学。今、鴨江小学校を同校のホームページで調べてみると、開設は昭和16年(1941年)3月31日で、西小学校を借用して「浜松市鴨江尋常小学校」として発足している。

[後にわかった同級生] 

その西小学校は明治42年(1909年)4月1日に設置され、大正11年(1922年)に「浜松西尋常高等小学校」、昭和6年(1931年)に「浜松西尋常小学校」に改称、村松さんの入学した年には元浜商跡に分教場を置いている。昭和16年(1931年)には、尋常小学校は「国民学校(初等科)」に、その上にあった「高等小学校」は「高等科」と改称されている。したがって、村松さんが卒業するころには国民学校となっていた。

平成12年(2000年)JARL(日本アマチュア無線連盟)浜松クラブは創立50周年のミーティングをもったが「この席で和田覚(JH2UKK)さんが、西国民学校6年2組の同級生だと知らされ、びっくりした」と村松さんはいう。さらに翌年、村松さんの卒業した小学校の同窓会が開かれたが「当日の名簿を見て、元東大総長・文部科学大臣の有馬朗人さんも同クラスであることを知り、さらに驚いた」とも言う。

[フジヤマのトビウオ] 

村松少年は昭和19年(1994年)に「浜松二中」に進学した。ついでに「浜松二中」について触れておくと、同校は大正13年(1924年)に開校し、戦後の学制改革により変遷を遂げたが昭和23年(1948年)に「県立浜松第二高等学校」に、さらに翌年には「県立浜松西高等学校」に改称されている。

卒業生で有名なのは「フジヤマのトビウオ」といわれた日本オリンピック委員会会長の古橋広之進さんである。古橋さんは浜松市内の雄踏小学校に寄贈された「山崎プール」で戦前から泳ぎ始め、浜松二中から日大に進学した。少年時代から自由型で抜群の記録をだし、昭和22年(1947年)8月に400m自由型で世界新記録を樹立、その後33回の世界新をだしたという。

古橋広之進選手の力泳。昭和21年。新井スイミングスクールHPより

古橋さんが評価されているのは、太平洋戦争に破れ経済も産業も疲弊、再び「世界の劣等国」に落ちこんだような感慨をもっていた当時の多くの日本人に「日本人もやれるのだ」という希望をもたせてくれたためである。圧倒的な強さに、米国の新聞が「フジヤマのトビウオ」の名前を付けたことから、ニックネームになった。

[5回の転居] 

古橋さんのことを長く書いたが、村松さんは「浜松二中に入学した時、古橋さんは5年生であったが、全員が学徒動員でお目にかかることはなかった」と。残念そうだ。日本は日中戦争、太平洋戦争に突入しており、必ずしも明るい少年時代を過ごしたわけではなかった。

昭和20年(1945年)、住んでいた家が全焼する。次々と南太平洋を攻略し、日本に近づいてきた米軍は制空権を無くしている日本本土を、前年から自由に爆撃していた。浜松への爆撃は4月30日、5月19日、そして6月18日には最大の空襲に襲われた。村松さんの家は4月30日に被災「一瞬にして丸裸になった」と言う。

「その夜、兄弟4人と両親の6人は1枚のふとんに足だけ入れてまどろんだが、母は夜通しおえつを漏らし、涙を流し続け、その姿が子供心にもとても悲しかった。この時の母の心痛を理解するまでさらに10年もの歳月が必要だった」と、当時の悲惨さを語る。その後、住まいを転々と替え「結局5回ほど移り住みました」と言う。

[学徒動員] 

もちろん、学校生活も平穏ではなかった。「学徒動員」が始まる。青年、壮年が続々と召集を受けたため、人手不足となった軍需工場や、農家の労働に駆り出されたのである。「学徒動員」は、国家政策として日中戦争中の昭和13年(1938年)から始まり、当初は夏休み前後の数日間だけであった。その後、太平洋戦争の開始とともに動員の規模は拡大、昭和19年(1944年)には旧制中学全生徒が対象となる。

浜松西高等学校の場合は、動員先は浜松航空分廠、鈴木織機、石川鉄工所、日本蓄音機などだったらしい。昭和20年(1945年)村松さんら2年生は「松根油」を採取する労働を科せられる。「松根油」は、松の木の根から採取し、不足しつつあった航空機用ガソリンの代替燃料として活用しようと試みたものであった。ただし、その後処理として化学的な処理が必要であり、実際にはほとんど実用化されなかったらしい。

浜松空襲で焼け野原となった浜松市。浜松市のHPより