もう少し高柳さんの話を続ける。浜松高工・高柳グループの活躍はすさまじかった。画像電送に成功したことが大きな話題となり、あちこちから要請があったとはいえ、意欲的に実験や公開を行った。浜松高工では昭和天皇の天覧もあったが、大阪で行われた「電気は進む電波は踊る展覧会」でテレビジョン受像実験を行っている。まだ、高柳さんがNHKに出向する前の昭和8年(1933年)の話である。

実験は「浜松高等工業学校出張」の主宰名の下に「日本放送協会関西支部」と書かれ、実験免許はJ3BGである。村松さんは「浜松高工のコールサインJ2BDでなく、J3BGとなったのは、関西での一時的免許のためでは」と推定しているが、その通りだったらしい。当時の私設無線実験局は、Jの次ぎにエリアコードがきて、次いでサーフィックスはAが逓信省関係、Bが学校関係に付けられ、全くの個人はCから始められていた。

「浜松高工ではテレビ用中継車4台をつくり、NHKにもっていったらしく、昭和12年(1937年)のころのその写真を見ておどろいた」と言う。この写真は米国のアマチュア無線雑誌QSTにも掲載されたといわれているが、当時としては世界最高水準のテレビ放送設備ができつつあったといえる。後年、村松さんは名古屋のCBC(中部日本放送)に勤務するが、そこで改めて驚いている。

昭和8年、浜松高工からNHKにもっていったテレビ中継車4台 --- 静大テレビジョン技術史より

昭和31年、CBCはそれまでのラジオ放送に加えてテレビ放送を開始する。「巨大な中継車をつくって野球中継を行いました。私は中継車のマイクロ担当でした。すべての機器は開発されたとはいえ不安定で大きく、重く、体力との競争でした」と言う。村松さんはこの写真をスタッフ全員に見せた。「全員が絶句した」ことを覚えている。

「昭和10年~12年(1935~1937年)のST真空管時代に、どうして映像、音声、同期、モニターなどの機器を作れたのか。さらに、その電源、カメラ、コントローラーなどとても想像できませんでした」と振り返っている。この当時の家庭用テレビ受像機の写真も残されているが、デザインを取り上げても現代でも評価されるようなものである。

[NHKのラジオ放送] 

高柳さんの門下でテレビ研究に携わったグループとは別に、卒業生は太平洋戦争を前にして国内外のラジオ放送局の技術要員としても活躍した。「当時は電気・通信のほか、無線専修科もありました。戦時色が強くなったため、NHKは国外も含めた置局計画を作り、若い技術者確保のため学生を集めました。樺太、朝鮮、満州、台湾、南太平洋、中国へと卒業生は散っていきました」と村松さんは当時が目に浮かぶかのように話す。

樺太、朝鮮、満州、台湾はすでに日本の領土になっていたが、戦争遂行のためには情報伝達のために広く放送網を作る必要があった。さらに「現地からも優秀な若者が浜松高工に送りこまれてきました。その人達も必然的に現地でハムになったようです」と。したがって、他地区に散った浜松高工出身のハムも多い。

昭和12年、実用化を目指して作られたテレビ受像機 --- 静大テレビジョン技術史より

[白バラの垣根] 

その一人が現在狭山市にお住まいの山田愿藏(戦前J2OM・戦後JG1IKY)さんである。山田さんは浜松高工の卒業後、陸軍の科学研究所に就職し昭和12年(1937年)に東京でアマチュア無線免許を取得した。その山田さんは、戦前のハムの集りである「レインボー会」の会員になっているが、10年ほど前の会合で当時のことを話している。それによると、山田さんは創立6年目の浜松高工に入学した。

高柳先生に電気工学の教えを受けたが、そのころの学校について「この学校には校門がないんです。広い敷地の四方は白バラの垣根になっている。入学して間もなくその白バラは満開になっていて素晴らしい。浜松市民は子供も大人も自由に学校の中に出入り出来るんです」と、昭和のまだ初めのころの雰囲気を語っている。

白バラについての思い出は村松さんにもあった。浜松高工は昭和20年の空襲で全焼し、校舎は当時の高射砲連隊跡地に移ったが、白バラの跡地は浜松市立女学校となった。隣には浜松一中があった。「今はそれぞれ浜松市立高校、浜松北高となり、静岡県西部の秀才、才媛が集っている。白バラと紺のセーラー服、白線と白いマフラーの組み合わせは浜松の若者のあこがれでした」と、返ることのできない60年前に思いを馳せている。

[パチンコ店とコールサイン] 

村松さんが思いを馳せるために、これを書いているわけではない。村松さんの姉はこの女学校を卒業したが、村松さんが「思いもしなかった」隣にあった北高の若い数学教師である大石卓さんと結婚する。大石さんは後に白バラの市立高校の校長になる。その後、ハムになった村松さんは愛用の自転車にコールサインを大きく書いていた。

村松さんの留守中は大石さんがこの自転車を使ってたびたび出かけていた。ある時、パチンコ店でこの自転車を見つけたハムの卵達がいた。「村松さんがいるぞ」と、彼らは店内の拡声器で呼出しをかけたという。大石先生は「出ていくわけにも、黙っているわけにもいかず、あんなに困ったことはなかった」とその後何度もぼやいていたらしい。

[あなたは音痴ですから]

余談が長くなった。山田さんの話である。「学長は非常に自由思想の人で自由について教えられました。高柳先生の研究室では創意工夫などについて教えられ社会人になりました」と話している。また、「私は小中学校のころには数学が得意でありました。しかし、浜松高工へまいりましたら数学が強い人ばっかりいることがわかりました」と言う。

そこで、山田さんは「こんな連中と競争していたんじゃかないっこない。だから電波の方でもなるべく中心から遠ざかって、別のルートで電波を生涯の仕事にしたいなあ、と思って研究所に入りました」と説明。その科学研究所では音響研究室に配属されたが「お前は音痴だから駄目だ。電波機器の方で人手がいるからそちらに行きなさい」と望んでいた無線の方に配属されている。