[受験] 

中部日本放送が開局準備に大わらわのころ、村松さんもいよいよ受験の準備を始める。次の試験は10月である。まず、和文のモールスの特訓を受けるために浜松市駅南にあった家田無線に週何回か通った。同店の店主は元軍人の通信士であり、一緒に通ったのが加藤武雄(後にJA2BD)さんと 市川康平(後にJA2CY)さんであった。

3人ともに1級を目指していたが、家田先生は「若い順に成績が上がる」といい、事実そうなった。加藤さんは最初にあきらめてしまった。多分、すでに2級に合格しており無理することはないと思ったらしい。村松さんも「今のレベルでは無理と言われ、2級を受験することになった」と言う。

[合格] 

10月の第2回の試験の受験者は予想に反して少なかった。浜松クラブからは村松さん一人だけが受験し合格した。この時は全国で1級27名、2級48名が合格している。免許証は翌27年(1952年)2月に受け取った。しかし、第1回の合格者を含めて開局許可の動きは相変わらずなかった。JARLはもちろん、郵政省と接触のある関係者は盛んに開局促進の運動を始めていた。

なかでも、東京の庄野久男(後のJA1AA)さんは、GHQや電波監理委員会を訪ねて再開を陳情する一方で、複雑な開局申請書の書き方などを全国の合格者などに伝えるなど申請者の支援を行っていた。そのころ、庄野さんは雑誌の「DX欄」を担当しており、投稿者の村松さんはしばしば庄野さんの自宅を訪ねてもいた。免許証を受けとってしばらくすると、庄野さんから「申請が受理されそうだ。急ぎ申請されたし」の連絡があった。

村松さんはすぐに準備していた申請書を清書、手書きで4部を作り4月初めに申請した。「コピー機はなく、複雑な申請書を書き続けた。内容に不備や不具合があっても仕方がないと考えていた。設備の支弁方法も記入しなければならず、自己資金と記入した。実際は親の"すねかじり"であったが、お上を愚弄していると思われたらまずいと考えてのことだった」と、当時の苦労を話している。

[浜松クラブの支援] 

村松さんの手元にその時の申請書の写しがある。電波管理委員会受け付け、昭和27年(1952年)4月23日付けである。申請料は700円、無線設備費は送信機1万円、受信機6千円、その他2千円、運用費は年間5千5百円と書かれている。送信機の構成は6AG7変形ピアス、水晶発振、6F6PAで2逓倍し、11W入力、60%換算で出力は6W。6C6×2、6F6の音声増幅、プレート変調。受信機は6AC7-6SK7-76-6ZP1のストレート受信であった。

4月には村松さんは3年生になっていた。このころの思い出はNHK浜松放送局の川村英雄さんの放送工学を受講したことである。実習では浜松放送局の送信設備を見せてもらい、また、この年と翌28年(1953年)の夏休みの実習としてNHK名古屋放送局の技術現場を紹介してもらっている。「ラジオのスタジオ制作、中継現場などで一カ月の実習を行ったが、後に就職したCBCでそれが役立ったほか、CBCのスタッフはNHKからの転職者が中心であり、お世話になった」と言う。

河村さんは要請されて浜松クラブの技術顧問となったが、村松さんは横山さん、加藤さん、谷下沢さんら浜松クラブの先輩に非常にお世話になった」と言う。そのころには後輩の高校生のほとんどがダブルスーパー受信機を使っていたため、村松さんも「いつまでも1-V-1ではない」と、旧日本軍の軍用受信機を集める。「3人の応援を得て地1号、対空1号、地3号などを購入したり借用したりして集めた。オーバーホールは加藤さんがしてくれ、ST管はGT管へとレベルアップした」と言う。

旧日本軍の受信機をレベルアップした

約50年後の平成12年(2000年)に村松さんはこの時のことを思い出として記している。―「若い君、頑張ってくれ。私の軍用の受信機を全部貸してあげる」と横山さん。「よしオーバーホールは任してくれ」と、最高のレベルに改造してくれた加藤のジイチャン。アンテナの線材や碍子、避雷器など国鉄の払い下げ品を回してくれた谷下沢さん。長いSWL時代を手取り足取り指導していただいた山本さんと、日夜競い合った藤山さん。その成果は壁一杯に貼られたQSLカードの山だった。それは私にとって何物にも代え難き宝物だった―。

[予備免許] 

昭和27年(1952年)7月29日、全国の30局に予備免許が下りた。戦後初の予備免許であり、村松さんも申請が間に合いその中に含まれていた。「JA2AC」子供のころからあこがれていたコールサインである。村松さんは「翌30日の朝日新聞の紙面で知った。しかし、村松さんより一足早く2級アマ無線になった浜松クラブの人達の申請は遅れていた。Aコールはその後JA2ASとなった藤山さんだけであった。

村松さんは「果たして本当に免許が下りるのか、と皆さんは見守っていたのではないか。本来ならAコールでずらりと並んでいても良かったのに」と残念がっている。この最初の予備免許は東海(JA2)エリアでは同時に岐阜県大垣の中川鉄夫(JA2AA)さん、静岡県庵原郡の仲川鈴夫(JA2AB)さん、三重県名賀郡の片山実(JA2AD)さんと、当時はJA2エリアであった福井県坂井郡の円間毅一(JA2WA)さんに交付された。

予備免許をもらったものの村松さんは「これで電波を出せるという喜びと同時に大きな不安があった」と言う。それまでの村松さんのSWL生活は14MHz受信のみであり、7MHzは「全く未知の世界だった」からである。

電波管理委員会から与えられたJA2AC予備免許許可

「本当に7MHzでDX・QSOができるのか。すべて一からの出直しになるのではないか」と心配になったが「やがてこの不安は的中した」と言う。村松さんに続いて浜松の“SWL・DXメンバー”は、続々と2級アマ無線の免許を取得し、開局したが「7MHzのQRM(混信)に巻き込まれて活躍することもなく次第に消えていった」と村松さんは残念がっている。