[工事落成間に合わず] 

村松さんは局設備の工事落成期限を11月28日にし、送信機の製作に取りかかるが、ここでも村松さんらしいアイディアを発揮した。「今後も除々に機器のレベルアップを図ることになると考え、回路を3ブロックとしてシャーシを独立させた」と言う。水晶発振―2逓倍―増幅のブロック、変調ブロック、電源ブロックの3ブロックである。事実「その後は各ブロックごとに目まぐるしく変更することになった」と、ねらい通りだった。

ところが、工事落成届けを出す寸前になって事故が起きた。6AG7の発振出力をアップさせようとスクリーングリッドの電圧を上げたところ、7087.5KHzのクリスタルが破損してしまったのである。クリスタルは高価であり、周波数偏差値が厳しくメーカーからの納品まで日にちがかかっていた。「自作のクリスタルでは350Hz以内の精度を出す自信はなかった。やもなく、工事落成期限延長申請書を提出」することになった。

村松さんが提出した工事落成期限延長申請書

当時のアマチュア無線局は本省扱いであり、一般無線局並みに書類検査も厳しかった。本省からは「たかだか6Wの送信機の延長申請は納得できない。書類ではなく事情説明に本省にきてくれ」と言われ、村松さんが困惑し悩んでいると折り良くアマチュア無線局の取扱が各地方電波監理局に移管されることになった。

ほどなくして、名古屋で落成検査の手続き、検査方法などの事前打ち合わせ会がもたれた。アマチュア無線は太平洋戦争によって中断されており、10数年ぶりの検査だけに電波管理局も勝手がわからなかったらしい。そのための打合せであったが「期限延長の話どころか、私と加藤さん、谷下沢さんの浜松地区3局の落成検査を同時にできるようにして欲しいと逆に依頼されてしまい、一件落着となった」と言う。

[長かった試験電波期間] 

電波監理局としては、名古屋から浜松までアマチュア局の検査にその都度出かけたくないという思いがあったのかもしれない。同時検査については「加藤さん、谷下沢さんが私のことを考慮し、春休みにやってもらうのが良いだろう言われ、ありがたかった」という。そのために、試験電波の期間は8カ月もの長期間になってしまったが、電監からは「本来の主旨を逸脱しないように」と通達を受けていた。

当時、7MHzは2波の固定周波数のみ。交信ではビートや混信が100%になっているのは仕方がないが、逆にいつでも相手がある。機器の試験を繰り返しつつ、制作しておいた3ブロックの真空管を次々に入れ替え、より効率の良い送信機をめざした。村松さんは今、多少口ごもりながら「それはあくまでも実験装置であったと断言しておきます」と強調している。

3ブロックに分割した送信機の回路図

[検査] 

昭和28年(1953年)3月5日、浜松の駅頭に色とりどりの座布団や毛布を載せた3台の自転車が並んだ。自転車の脇にそれぞれ緊張して立つのはその日落成検査を受ける3人。座布団や毛布は測定器を運搬するためのクッションのため。「タクシーでお出迎えなんてちっとも考えなかった。3局は歩いて10数分の範囲であったとはいえ、驚いたことだろう」と村松さん。「これではあまりにも失礼になると次の検査からは浜松に一台しかないハイヤーとなった」と言う。

村松さんの検査では電力測定で問題が起きた。パワーは上限10%、下限20%の範囲内と決められている。申請した6Wでは6.6Wから4.8W以内でなければならない。当日、持ちこまれた電力計は100W計だった。「測定用結合リンクコイルをタンクコイルにぐるぐる巻きにし、もっと大きな声で変調をといわれるが針はピクット振れる程度。係官も私も汗を流しだした。本当に電波が出ているのか、といわれる位のものだった」と、当時の必死さを語る。

それでも、ワンターン豆球は明るくつき、60%といわれている入力、出力の換算値を参考にして合格。心配していた周波数偏差は400Hzで合格。検査簿に新設検査合格の印をもらったものの、係官からは「書類手続きは名古屋に帰ってから行うので免許状は数日かかる。運用開始はそれからにすること」ときつく釘を刺された。

3ブロック別にくみたてた送信機(左から送信部、変調部、電源部)

[初交信] 

3月11日、12時45分、7087.5MHzで埼玉県の高橋春男(JA1CG)さんとの初交信。双方のR(了解度)S(信号強度)は56と57だった。その日には渡辺健吉(JA7AI)さん、高尾光能(JA3BM)さん、小川薫(現横瀬薫、JA1AT)さん、三浦長栄(JA6AS)さん、浦上正二(JA6AX)さん、などと順次QSOした。

各局からは「ずいぶん待たされましたね、と慰められました」と村松さんは言う。その日、村松さんは「終段C級で陽極とスクリーングリッドの同時変調は能率35%で計算する管区もあり、東海のように60%換算のところもあるなど統一されていない、との情報を聞き」びっくりしている。

無線業務日誌、検査簿などでも村松さんらしい工夫があった。ガリ版で作成、謄写版で印刷し通し番号を打った100枚綴りを作った。日誌ではSWLレポートの経験を生かし、B4版、運用日1日1枚とした。後に、村松さんは毎年行われる定期検査時に係官から「電監内でJA2ACの日誌は素晴らしいものだ言われていますよ」と聞いている。

加藤さんは横山さんに次いで2代目の浜松クラブ会長となり、また、谷下沢さんも後に会長に就任するが、村松さんを含めた3人のハムの誕生は浜松クラブや周辺のラジオ少年達に大きな刺激を与えた。その中の一人が先にも登場した鈴木澄男さんだった。鈴木さんは後年になって、そのころのことに触れている。

夢中で短波を聞いていたある日、突然に村松さん、加藤さん、谷下沢さんの3人がラウンドテーブルで話をしているのにであった。その電波の強力なことと音声の明瞭なのに驚いた。ハムというものはもっとか細い存在という先入観が破れ、強大な存在感を改めて感じた。毎晩、楽しそうに話しているのを聞いて、一刻も早くそのレベルに達しなければとあせり始めた。