[エニワン・ハムステーション?] 

夏休みを活用して、村松さんは各地のCBSのネット局を訪ねた。WCBSのハマ―・マネージャーの紹介状を携えての訪問であるが、技術部門を見せてもらった後にどこの局でもアマチュア無線が話題になった。「どこにもハムがおり、いつも意気投合した」と、楽しかったらしい。

W4エリアの局を訪ねた時のことである。村松さんが事前に聞いていた話ではハムはいないということだったので、ここではアマチュア無線の話は無理だと覚悟していた。歩いていると取材中の中継車とVTR車に出くわした。車内に向けて村松さんは「エニワン・ハムステーション?」と叫んでみた。すると中からハムが飛び出して来た。飛び出して来た本人も「大喜びだった」と言う。

[米国各地でハムと交流] 

11月1日、約8カ月の研修を終えて、村松さんはニューヨークを後にする。当時、日本への帰国便はルートが後戻りしない限り料金はどのコースを通っても一緒であった。村松さんはそれを利用し、各地に立ち寄りながら帰国することにした。その話しが伝わると米国各地のハムから「寄って欲しい」との招待が届いた。シカゴ、セントルイス、クリ―ブランド、アトランタ、マイアミ、メキシコシティ、ロサンゼルス、ラスベガス、サンフランシスコ、ホノルルに寄った。

スケジュールが伝わったため、全く面識のないハム達がそれぞれの空港まで出迎えてくれた。ラスベガスではK7ICWさんが楽しい一晩を提供してくれた上に「空港で何と彼の愛用TXの終段PA、4-125Aを2本までお土産にくれた」と感激している。別れ際にICWさんからは「日本からの6メーターSSBを期待しています」と言われてしまった。

米国での思い出を記載して作ったカード

[12年前の交信テープ] 

カリフォルニア・サンパブロではラルフ・クリン(W6PAZ)さんに会った。昭和31年(1956年)のサンスポット最大のころ、村松さんは50MHzでラルフさんと交信したことがある。その時のラルフさんのリグは送信管に6AQ5を使った4W入力のローパワー機で、受信機も超再生だった。ラルフさんは尋ねた村松さんに当時の交信テープを持ち出してきて聞かせてくれた。

「ラルフさんは交信を全て録音しており、テープを借りて日本にもって帰ったら大喜びする人が多かったと思う」と村松さんは残念がっている。最後のハワイではリー(KH6BZF)さんに招待された。パールハーバーの見渡せる彼の庭でハワイ料理をご馳走になり、お互いの健康に乾杯した。「彼は今でもCQ誌にVHFの電波情報を毎月提供しており、親日ハムの一人」と村松さんは言う。


ハワイであったリーさんと彼のカード

[スワンとともに帰国] 

村松さんは昭和43年(1968年)11月に帰国した。米国で購入した「スワン250」と一緒に日本に降り立った。当時の雑誌「QST」に「JA2AC、スワンを持ってJAに。次ぎの6メーターオープンは楽しみだ」と掲載されている。しかし、翌年の春から夏にかけては米国と全く交信できなかった。「アンテナが悪かったことが後でわかった」と言う。

海外は駄目でもJA3、JA4、JA6方向の多くの6メーター局とは交信が出来た。ただし、日本ではSSB局は少なくいつもキャリヤーを入れてA3Hで運用していたらしい。帰国後、村松さんは米国での思い出を忘れないように新しいQSLカードを作った。米国で会ったハムのコールサインを短いコメント付きで紹介した文が半分以上を占めているカードである。

[CBCアマチュア無線クラブ] 

CBCアマチュア無線クラブが東海地区で始めてのクラブ局JA2YAAを開局させたことはすでに紹介した。開局に当たって電波監理局は「規模、設備、定款、運用のいずれにおいても地域のクラブ局のモデルになってください」と注文されている。このために同クラブは「全て完璧なものにと欲張った。その結果、しばしば他のクラブ開局予定者からクレームをいただく結果になってしまった」とその当時を語っている。

昭和30年(1955年)代に全国各地に民間放送局が続々と出来上がり、それぞれの局には多くのハムが採用された。そのため、各放送局にもクラブ局が設立されていった。昭和40年(1965年)これらのクラブ局が中心となり「中部地区民放アマチュア局親善交信大会」が実施された。参加したのは新潟放送(JA0YCK)北日本放送(JA9YCQ)東海テレビ(JA2YCG)東海ラジオ(JA2YAN)岐阜放送(JA2YGS)そして信越放送であり、クラブ局を含め32アマチュア局のQSOとなった。

[10年目のペディション] 

CBCのクラブ局開局10年目の昭和45年(1970年)の秋、CBCテレビ中継局5地点を選んで移動運用が行われた。岐阜県の高山、中津川、三重県の尾鷲、熊野、名張で、当然のことながら運用に最適な山があり、局舎も電源も揃っているため盛大なエリアペディションとなった。

このペディションは「会社には地域エリアの方々との交流という名目にして実施された」と言う。当時、クラブ員は46名に達しており、このうちコールサインをもつ者が31名だった。「移動陣はテレビ中継並みの豪華なものだった」と村松さんは振り返る。5地点全部の完成者である伊澤淳一(JA2TI)さん始め58名の方を表彰して終了した。

昭和45年、CBCクラブ局は移動ペディションを行った。テレビ中継並みの装備。写真はテント2張り,オールバンドのアンテナ、リグだった