[中波ラジオの鉄塔利用] 

高さ110mのCBCラジオ放送の送信アンテナ塔は、名古屋市緑区の鳴海にあり民放第一声を送り出した昭和26年(1951年)以来使用されてきたが、周辺の土地開発が進み、8階建てのマンション群に取り囲まれ、いろいろな影響が出始めてきていた。このため、昭和53年(1978年)秋、三重県長島町の海岸近くに移転した。

不要となった鉄塔について「あの鉄塔からQSOをしたら」と、クラブの中から声が出てその珍案が実現することになる。「人間が一人すっぽり入る大きなマッチングコイルが果たしてハムバンドでマッチング可能か」「1.9MHzならWACも可能では」「頂上からハンディ機で東京と交信できるのでは」など賑やかな会話が交わされた。

運用当日、鉄塔下には各種の無線機が並べられたが、HFトランシーバーのスイッチを入れたとたん、信じられないことが起きた。全ての無線機がハムバンドに関係なく、Sメーターが振れ切れたのである。村松さんは「一体何が起きたのか分らなかった。1053KHz、CBCラジオの電波がフルスケールで飛びこんできたのである」と驚いた様子を語る。

「それでは次ぎは」と提案者の村松さんが鉄塔の上からハンディ機で交信することになった。ハンディ機を担いで村松さんは慎重に、そろりそろりと鉄塔に登り始め、途中で何局かと交信して下りてきた。村松さん自身はかなりの高さまで登ったつもりであったが、地上から見ていた仲間からは「あれはせいぜい40m位だ」と言われてしまった。

ラジオ送信鉄塔の下部にあるマッチングコイル。人間一人がすっぽり入るくらいの大きさ

[積雪深い中継所] 

民放、NHKを問わず、たくさんのハムが放送局に勤務していたことは何度か触れている。多少時代が遡るが、村松さんが接触した多くのハムとの交流の思い出をつづってみる。昭和29年(1954年)、村松さんが入社した年である。CBCは岐阜県高山に良質な電波を送るため、名古屋からの経路に当たる下呂にある標高1505mの寺田小屋山にVHF、FM中継局を設置した。

冬は積雪2mに達する難所であったが、新人の村松さんは装置の保守のために、しばしば登山した。「この山麓に中部管区警察の通信所宿舎があり、浦沢勇(JA2CW)さんがいた。また、その元締めである岐阜には中川鉄夫(JA2AA)さんがおられ、時々お会いして、登山上の注意をお聞きした」が、その後、偶然にも2人ともに名古屋の放送局に転職し「同業仲間となる、不思議な縁だった」と言う。

鉄塔の下にリグを並べて態勢を整えたが・・・・

[東京の研修時代] 

昭和31年(1956年)村松さんはテレビ放送の実務勉強の目的で東京・赤坂のTBSテレビ主調整室(通称テレマス)に泊りこんでいた。テレビ放送開始を前にCBCからはこの時技術要員10数名が東京に派遣され、村松さんもNTTなどにも出向して半年以上も東京に滞在した、ことはすでに触れている。

TBSには「東京ナイトクラブ」と自称していた中野英治(JA1NC)さんがおり、村松さんには「仕事より脱線の方が多かった」記憶がある。中野さんは現在7MHzキー局として活躍している。そのころ、訪問したNETテレビ(現全国朝日放送)では「川田勤(JA1DH)さんにいろいろ教えていただいた」と言う。今でも村松さんは川田さんとも「お互いの旧交を暖めている」関係にある。

村松さんはハンディ機をかついで鉄塔に登った

[重責担ったハム達] 

昭和40年(1965年)代に入ると、放送上の技術レベル標準化などのため各民放局の技術担当者会議がしばしば開催された。会議は持ち回りで開かれることが多かったが、どこの地区でも「会議が終わるとハム達のアイボールQSO(直接会っての交流)となり、賑やかだった」と村松さんは懐かしげである。

昭和50年(1975年)代になると、多くのハムがそれぞれの職場で技術の責任者に昇格していく。郵政省、NTT、NHK、民放各社、放送機器メーカー、さらには広告代理店、スポンサー企業などで責任ある立場となったハム達は、それぞれ東奔西走の日々を送ることになる。「日本テレビの作間澄久(JA1BC)さん、文化放送の海老沢政良(JA1DM)さん、山形放送の設楽要(JA7CL)さん、南海放送の松本純一(JA5AH)さん、新潟放送の阿部功(JA0AA)さんもそのお一人だった」と言う。

[15,000枚の真っ赤なカード] 

アイディアを駆使する村松さんはある時「ひときわ目立つQSLカードを作ろう。ハムのシャックに飾られるたくさんのカードの中でもすぐ分るカード」をと考え作成した。会社に出入りしていた印刷屋のおじさんが「それは面白い」と共鳴して引き受けてくれた。ボーナスから3万円を出し「一枚でも多く、一円でも安く」と注文した。

その結果は1ヶ月後に届いた15,000枚のカードであった。台車一杯に載せられて届いたが「こんな枚数になると思わなかった。家にもって帰ったら馬鹿にされる」と村松さんは事務机の下に積み上げ、毎年1,000枚ずつ家に持ち帰って使ったが約10年間村松さんのメインカードになった。予想通り「好評だった」と言う。

「目立つカードを」と村松さんは真っ赤なカードを作る。その数15,000枚