[光電子技術の世界的企業] 

横沢さんは浜松フォトニクスに入社する前に、アルバイトとして同社の研究開発に貢献している。同社は、太平洋戦争前にテレビジョン開発で世界の第一人者であった浜松高工(現静岡大学)の高柳健次郎さん門下の堀内平八郎さんによって設立された。堀内さんはまず昭和23年(1948年)に光電管の開発を目的に東海電子研究所を設立。

その後、昭和28年(1953年)堀内さんはテレビ受像機やテレビカメラの開発・製造をねらって「浜松テレビ」を設立。しばらくすると同社に魚礁観察用水中カメラ製作の依頼があった。その開発を担当したのが、まだ静岡大学工学部の学生で村松さんと同期の横沢さんだった。横沢さんは必要な部品、測定器の揃っていない中で4カ月で開発を成功させる。

この製品は同社にとってテレビ応用の第1弾だったと言う。その後、同社は光電子増倍管、硫化カドミュウムセルなどを手がけ、昭和58年(1983年)に現社名に変えている。同社は光電子関連技術では世界のトップクラスであり、現在でも企業の業績も素晴らしい優良会社に発展している。

電子増倍管の封止工程--- 浜松フォトニクスのホームページより

[光電子増倍の開発] 

光電子増倍管について簡単に触れておく。同社の「20インチ径光増倍管開発ストーリー」によると、東大理学部の小柴教授から開発を要請されたのは昭和54年(1979年)であった。同増倍管は陽子が崩壊する時に発する高エネルギーの荷電粒子によって発するチェレンコ光を捕らえるもので、さまざまな方向から飛んでくるチェレンコ光をキャッチしやすい構造で、しかも耐圧、耐水性が要求されるものである。

さらにチェレンコ光は光よりも高速であるため、高感度・高速応答の性能を要求され、また、2つの時間的に近接した光(光子)を正確に分離する時間分離性能も重視される。結局、25インチではなく20インチを開発することになったが、幸い先行して試作していた8インチ管がベースになり、56年(1981年)1月にはサンプル管の納入にこぎついている。カミオカデンへの納入は57年(1982年)5月。

小柴教授は陽子崩壊観測以外に太陽ニュートリノの観測もできることを知り、装置の改造を行い62年(1986年)1月からはこの2つの観測を同時に開始した。ニュートリノは太陽の核融合、星の寿命が尽きる時の大爆発によって大量に放出されると言われていた。このニュートリノは地球を通過し、超純水が満たされた水槽を通過する時、ごくまれにチェレンコ光を発することになり、それをキャッチしたのがこの装置であった。

[時代の変化~初の女性技術者] 

話しがそれたが、職場を去る年の平成9年(1997年)村松さんにとって最後の新卒社員の面接があった。新年度、CBCは初の女性放送技術者を採用することになった。それまで、男性社会であった放送の技術現場に女性が加わるとは村松さんの年代では考えなかったことであった。時代の変化を村松さんは「しみじみと感じた」と言う。

大変な倍率を乗り越えて役員面接に現われたのはYLハムであった。名古屋大学大学院の才媛JS2OGM、加藤詩乃さんであった。村松さんは入社して早々に初めての面接を担当し、何人かのハムを面接したが、最後の面接でまた、ハムと向き合うことになった。「不思議な縁であった」と感慨深げである。その加藤さんは今、クラブ局JA2YAAの運営に当たっている。

村松さんが最後に面接した加藤さんはしばしばクラブ局のマイクの前に座る

[有り余る自由時間] 

「平成10年(1998年)ついに有り余る自由時間を手にした」と村松さんは、職を去る感傷よりも、喜びの方が大きかった。すぐにHFオールバンドトランシーバーと八木アンテナを購入した。「戦後すぐだったSWL時代からどれほどリグを更新しただろうか。これが最後のリグになるだろう」との思いと「ながいハムの空白時代を十二分に埋めることができる」との思いで、村松さんは「老いた血が騒いだ」と言う。

村松さんは、昭和50年(1975年)に名古屋市の天白区にある自宅にアンテナタワーを建てていた。クランクアップ3段、20mの高さ。最初は6mの6エレと2m上にグランドプレーンを取りつけた。高台にありロケーションは抜群で、VHFのGWはJA3、JA4、JA5へと飛んだ。

平成11年(1999年)各地のOT(オールド・タイマー)で構成されている「ハムサミット」を愛知県の犬山市で開催することになった。当然のことであるがメインキャップは中川鉄夫(JA2AA)さんであり、村松さんは幹事の一人として支えた。この「99ハムサミット」には各地からの“AA”さんら50数名が参加した。

中川さんのほか、庄野久男(JA1AA)さん、島伊三治(JA3AA)さん、円間毅一(JA9AA)さん、阿部功(JA0AA)さんらであり、楽しい一夜を過ごした。「みなさんかなりのお年であり、これからますます一同に会することはむつかしいと思う」と、当時のことを思い出す」と言う。しかし「まつ先に中川さんを失うとは夢にも思わなかった」と残念そうだ。

犬山市で開催された「99年ハムサミット」左から3人目が村松さん

[平成12年~13年] 

太陽活動期になり、VHFの各バンドも良好なコンディションであった。村松さんは「今まで未整理、未処理であったログ、QSLカードを整理し、あらゆるアワードに挑戦することにした」と言う。時間は十分にあった。DXではDXCC200、ADXA50、ミレニアムDXCC、ITUなどである。

国内では読売1万局、WACA、WAGAである。しかし、残念ながら国内全市のWACAでは鹿児島の西之表市が、また全郡のWAGAでは北海道の様似郡と増毛の両群が未交信となった。「しかも、最近の郡、市町村の合併で振り出しに戻ったような成績となってしまった」と困惑している。

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