[名古屋市に生まれる]

1940年、日本では日に日に戦時色が濃くなってきており、アマチュア無線局(1927年に初めて個人に免許された私設無線電信無線電話局実験局)については、まだ禁止されるまでには至っていなかったが、容易に免許が下りない状況となっていた。同年12月26日、野瀬さんは、男3人、女2人の5人兄弟の長男として名古屋市東区徳川町で生まれる。

1941年に太平洋戦争が始まると同時に、私設無線電信無線電話実験局(アマチュア無線局)に対して、装置の使用停止命令が発令され、アマチュア無線は禁止となった。1943年になると戦争の形勢が悪化し始め、名古屋市内には軍需物資を製造していた三菱を始め軍需工場が多くあり、市内にいると危ないと言われ、愛知郡鳴海町(現名古屋市緑区鳴海町)に一家で疎開することになる。

当時、野瀬さんはまだ3歳であり、そのときのことは覚えていない。鳴海町に疎開した野瀬さん一家は、戦後もそのまま住み着くことになる。野瀬さんの母親維公子さんは、生まれてからずっと名古屋の中心街で育ったため、疎開したとき、あまりの田舎で寂しくて涙が出てきたと語っていたことを、野瀬さんは後から聞いた。

[ラジオを作る]

1946年4月、6歳になった野瀬さんは鳴海小学校に入学。5、6年生の頃、理科の時間に電気の授業があって、そのとき始めて電気に興味を持った。中学校も当時の鳴海町で唯一の中学校であった鳴海中学校に入学。中学生になると、ラジオ雑誌の記事を参考にして、「鉱石ラジオを手始めに、色々な受信機を作っては壊し、またその部品で新しい受信機を作り、受信機の作り方、調整のしかたを独習しました。当時は自作の5球スーパーで、主に短波放送を聴いていました。」と話すように、俗に言うラジオ少年になった。

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中学生時代の野瀬さん。

部品については、名古屋市の栄町に電子部品を扱う露店(アメジャンが多く、真空管は殆どがジャンク品)が集まっており、家から自転車で1時間半以上かけ、わずかな小遣いを持ってそこまで買いに行った。当時、クラスには、ラジオに興味を持っている友人が2、3人おり、野瀬さんは彼らと一緒に部品を買いに行ったという。

中学時代は、部活には入ってなかったが、中学3年の時、数学の先生が、「数学が好きなやつは朝7時に学校へ来い。教えてやる」と言って始まった「数学研究クラブ」に毎朝出席した。このクラブは、当初は100人弱の参加者がいたが、日が進むにつれてだんだんと減っていき、最後まで残った生徒は21人だった。この21人は今でも連絡を取っており、最近では同窓会もやっているという。その数学の先生は奇しくも誕生日が野瀬さんと同じ12月26日生まれ、「現在でも東京都三鷹市に健在で、同窓会にもちゃんと出てくれます」と言う。

[商業高校に進学]

ラジオ少年であった野瀬さんは、電気についての勉強がしたくて、工業高校に進みたかった。しかし、野瀬さんが中学校を卒業した1955年当時は就職難の時代であり、父親の薦めで就職口の多い商業系の高校に進学することになり、名古屋市にあった中京商業高等学校(現:中京大附属中京高校)に入学した。中京商業高等学校は、初代校長となる梅村清光先生が、建学の精神「学術とスポーツの真剣味の殿堂たれ」を掲げて、1923年に創立した歴史のある商業高校である。また、甲子園常連として全国にもその名を知られた野球の強豪校である。

高校生となった野瀬さんは、自作の短波ラジオ(4バンドの高1中2のスーパーヘテロダイン)でアマチュア無線の受信も始めた。その頃には、「JA1AAT局などを受信したことを記憶しています」と話す。アマチュア無線に興味をもった野瀬さんは、16歳の時に、雑誌で存在を知ったJARL(日本アマチュア無線連盟)に准員として入会し、JA2-1301という准員番号(SWLナンバー)を発行してもらった。JARLはアマチュア無線の免許を持っていないと正員にはなれないが、准員として入会することができる。

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SWL時代に発行したSWLカード。

[CWを覚える]

アマチュア無線の交信を聞き始めると、自然な流れとして、CW(モールス通信)の受信もしたくなり、野瀬さんはモールス符号を覚えた。モールス符号を習得する場合、通常はまず欧文モールスを覚え、その後、和文モールスを覚えるという人が圧倒的に多い。和文の50字に対して、欧文はアルファベット26字なので、符号が少なく、習得が比較的容易だからである。

しかし、野瀬さんの場合は、和文モールスから覚えたと言う。その頃、3MHzか4MHzあたりで、共同通信社が船舶向けに新聞電報を和文モールスで流しており、これを聞いて練習した。いつ通信が始まるかわからないアマチュア無線とは異なり、新聞電報は送信する時間が決まっており、1回の送信時間は30分前後で、1日に複数回送信するため絶好の練習台だった。内容は時事ニュースがメインで、大相撲の勝敗まで流していたと言う。新聞電報のほかには、医事通報というのもあった。

ただし、これらの送信は、初心者を相手とするものではなく、船舶に乗船しているプロの通信士を相手にした送信のため、高速で打鍵している。そのため、野瀬さんが受信練習を始めた頃は、受信練習用紙は穴あきばかりであったが、毎日受信するうちに、だんだん取れるようになっていった。それでもまともに受信できるようになるのに、1年以上かかった。「一旦、和文モールスを覚えてしまった後の欧文モールスは、欧文の符号を覚えただけで、毎分50字くらいは簡単に受信でき、苦労しませんでした」と話す。

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高校生時代の野瀬さん(左)。

[雑誌に記事を投稿]

中学生時代は、クラスにラジオが好きな友人が数人おり、休み時間に情報交換を行ったり、休みの日には連れだって部品を買いに行くこともできたが、高校のクラスには、不運にもラジオに関する情報を交換する友人は誰もいなかった。そのため、野瀬さんは、雑誌記事と誠文堂新光社発行の「ラジオアマチュアハンドブック」(1958年6月1日 8版)を頼りに、「独力でラジオをいじっていました」と話す。また、当然のこと、商業学校にはラジオに関するクラブも無かったため、野瀬さんは陸上部に入部し、長距離走を専門として3年間活動した。学問とスポーツの両立を重視する学校の方針であったため、中京商業高等学校の運動部はどこも活発であった。

高校3年になると、野瀬さんは0-V-0式の受信機を制作して、「電波実験」誌に投稿した。投稿した理由は、もし投稿が掲載されると掲載号が無償でもらえる事と、小額ながらも掲載料がもらえるためであった。ダメ元で応募したのであるが、野瀬さんの投稿は、高校卒業直前に発行された1959年4月号に掲載され、野瀬さんはその掲載誌を手にすることになる。

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野瀬さんの投稿記事が掲載された「電波実験」誌1959年4月号。

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野瀬さんが投稿した記事。