[就職する]

高校を卒業した野瀬さんは、1959年4月、製薬会社である荒川長太郎合名会社に就職する。この荒川長太郎合名会社は、頭痛薬「ノーシン」などを製造しており、日本で一番大きな合名会社と言われた会社で、現在の株式会社アラクスの前身である。たまたま当時の荒川社長と野瀬さんの父親が、旧制中学校の同級生という間柄であったこともあり、父親の薦めでこの会社を選んだ。

製薬会社は、薬を作って売ることがもちろん本業ではあるが、当時のほとんどの製薬会社は、他の会社からも薬を仕入れて、自社の流通ルートで卸しも行っていた。自社で製造できる薬は薬全体からみるとごく一部であり、卸しをやらないと、品揃えができないことが理由だった。当時の荒川長太郎合名会社は、全国で販売される全医薬品の約0.1%を取扱っていた。「製薬会社と言うよりも、卸業のようでした」と野瀬さんは説明する。

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就職した頃の野瀬さん。

[薬の名前を覚える]

入社から2、3年間は倉庫で働いて、薬の種類を覚えさせられた。取り扱っていた薬は、その当時でも1万種類以上はあったと言う。これは同じ名前の薬でも成分量の違いや、飲み薬・注射薬・外用薬など何種類にも分かれるため、種類が増えるのだった。毎日毎日、倉庫で薬の出し入れを行っていたため、野瀬さんは、「いやがうえでも名前を覚えていきました」と話す。

倉庫担当の後は、配達担当に回され、今度は1年ぐらいかけて顧客を覚えさせられた。顧客は、病院をはじめ、開業医、薬局まであり、顧客の名称、場所、顧客の特徴を覚えていった。加えて、この期間に先輩の持っている全商品の価格表を、先輩の帰社を待って借り受け、自宅に持ち帰り1年がかりで手書きして、自分用の価格表を作った。配達担当を約1年経験した後は営業担当となり、当初は開業医の担当。その後は公立病院の担当になった。しかし、その頃、自宅で無線に熱中していた野瀬さんは、「本当は無線に関する仕事がやりたくて仕方がありませんでした」と話す。

[アマチュア無線の資格を取る]

就職して1年後の1960年4月、野瀬さんは、名古屋で実施された電話級(現4級)アマチュア無線技士の国家試験を受験し、1発で合格を果たした。野瀬さんはすでに4年以上SWLの経験を積んでおり、実際のSWL活動、ラジオの自作を通して、無線工学の知識を着々と付けていた。もっとも、受信の実績が十分にあるから国家試験が容易に受かるということは決してない。

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電話級アマチュア無線技士の無線従事者免許証。

その頃、野瀬さんの周りには、アマチュア無線をやっている人がいなかったため、誰からも指導を受けることができず独力で勉強したが、主に問題集に目を通した程度で、あまり勉強した記憶が無いと言う。野瀬さんは、「実際にアマチュア無線の運用を始めてから、どんどん無線の友人ができていったのですよ」と話す。

[JA2BNNが免許される]

1960年5月30日付けで、電話級アマチュア無線技士となった野瀬さんは、無線従事者免許証が到着後、直ちに無線局免許申請書の作成に取り掛かり、1960年7月21日に東海電波管理局(現東海総合通信局)経由で郵政大臣に申請書を提出した。と同時に初めて送信機をつくりはじめた。仕事から帰ると毎日のように作業した。仕事で疲れていても楽しい作業であった。

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野瀬さんが提出した免許申請書(写し)。

AMの変調はハイシング変調とし、ファイナルには受信管の6AR5を使った。受信管であるが故、出力は10W出るかどうかだった。ハイシング変調とは、低電流変調とも呼ばれ、回路がシンプルで自作に適していたため、当時は多くの局がこの方式でAM送信機を自作していた。野瀬さんは、この6AR5を使って、2台の送信機を作り、3.5MHz、7MHzの2バンドに対応した第1送信機と、50MHzシングルバンドの第2送信機が完成した。周波数は水晶式の固定周波数であった。

部品については、中学時代から通っていた名古屋市栄町の露店で購入した。部品が無くて探すのに苦労したという記憶はないが、就職したての野瀬さんにとっては、給料に比較してラジオ部品はかなり高く金銭面で苦労したという。とくに「送信機用の電源トランスや水晶片が高かったことを記憶しています」と話す。開局後もしばらく、栄町の露店で部品を購入していたが、この露店も1965年頃にはなくなって、ビルに入った普通の商店へと変化していったと言う。

[初交信を達成]

当時はすでに新設の落成検査は通常行われなくなっており、申請だけで局免許が下りる状況だった。申請書提出後3ヶ月強経過した、10月30日付でJA2BNNの免許が下りてきた。そしていよいよ初交信へと進むのであるが、当初送信機がうまく働かず、修理や調整に約1ヶ月を要してしまった。12月に入って、ようやく第1送信機が完全に動作するようになり、7MHzを重点的にワッチした。

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開局当初発行した野瀬さんのQSLカード。

前述のように野瀬さんの送信機は水晶式でVFOが無かったため、多くの場合は相手局と同じ周波数で送信できなかった。そのため、CQを出している局を見つけては、自分の持っている水晶片の周波数(相手局からは離れた周波数)でコールし、相手局が見つけてくれるまでコールし続ける必要があった。当時は殆どの局がこの方法を取っていたので、あまり不便を感じなかったと言う。1960年12月11日、野瀬さんは7MHzのAMで、愛知県常滑市のJA2AFP山崎さんのCQを見つけコールを開始した。すると幸運にも応答があり、22:36に待望の初交信を達成した。

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開局当初のログ。(後日パソコンに入力してプリントアウトしたもの)

[連日運用する]

この日は1QSOで終わったが、野瀬さんは、翌日より連日運用するようになる。自分からCQを出したときは、CQ終了後に、受信機のダイヤルをぐるぐる回し、離れてコールしてくる局がいないか探し、少しずつQSO数を延ばしていった。この頃は7MHzのAMに絞って運用し、1960年内に12QSOを達成している。

しかし、出力10WのAMでは、なかなか遠くまで電波が飛ばず、当初の交信相手は愛知県内の局ばかりで、ローカルラグチューが多かった。1ヶ月ぐらい運用して、ようやく1エリア(関東)、3エリア(関西)の局と交信できたときには、感激したと言う。当時の交信内容は、送信機や受信機に関することが多く、ほとんど技術的な話だった。開局当初から野瀬さんは、いつかはDXと交信したいと強く望んでいた。

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1961年頃の野瀬さんのシャック。

話は飛ぶが、2008年になって1通の手紙が届いた。それには「再開局して7MHzをワッチしていたら野瀬さんの電波が聞こえたので、懐かしくなって手紙を書きました」と書かれてあり、発信人は、JE1XIP(ex JA2BKJ)川口さんであった。さっそく開局時のログを調べたところ、JA2BKJ川口さんは、野瀬さんの開局後3局目のQSO相手であることが分かり、「当時のことを思い出しました」と話す。