[海外交信を達成]

年が明けて1961年になり、野瀬さんますますアクティブに運用するようになる。同年3月29日、いつものように帰宅後7MHzでCQを出していたところ、聞き慣れないコールサインの局が呼んできた。耳を澄ますと韓国のHM1AKであった。これが野瀬さんの初海外交信になった。当時のログを見ると送ったレポートは48だったので、明瞭に入感した訳ではなかったようだ。さらに、翌3月30日には、韓国の別の局HM1AIからコールされた。このとき野瀬さんが送ったレポートは37で、かなり厳しいQSOであったことがわかる。

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初交信海外局となったHM1AKのQSLカード。

このころ使っていたアンテナは、AWXアンテナと、TVフィーダーを利用したフォールデッドダイポールで、支柱には竹竿を使った。50MHzの第2送信機も完成していたが、50MHzはほとんど運用せず、野瀬さんはもっぱら7MHzを運用していた。

[電信級を取得]

1961年10月期の国家試験で、野瀬さんは電信級(現3級)に挑戦し、問題なく合格して、電信級アマチュア無線技士となった。CWを運用できる資格を得たので新しい送信機の自作に着手した。今回はAMの変調方式を終段陽極格子同時変調とし、ファイナルには6159(定格規格は6146と同じだが、米空軍機無線機用でヒーター電圧が26.5V)を使用して出力10Wを得た。周波数は3.5/7/21MHzの3バンドに対応したAM/CW送信機が完成した。この送信機で変更申請を出し、翌年3月14日付けで変更が許可された。

CW運用を始めると、自作の受信機の安定度に満足できず、米国ハマーランド社製で軍用のBC-779(当時の価格35,000円で、給与の3ヶ月分以上)を大奮発して入手。野瀬さんは「母親をだまして購入しました」と話す。野瀬さんにとって初めて購入した既製品であった。BC-779の受信周波数は20MHz迄の為、21MHz以上の受信は自作の多バンドクリコンで対応したと言う。CWが運用できるようなった野瀬さんは、この頃から本格的に海外交信を始めることになる。

1963年になると、上記3.5/7/21MHzの第1送信機に14MHzと28MHzを追加して、3.5〜28MHzの5バンドをカバーする送信機に変更した。第2送信機は、50MHzと144MHzの2バンドをカバーし、ファイナルには2E26を使ったAM 10Wの新しい送信機を自作して、以前の50MHzシングルの送信機から変更した。

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第2級アマチュア無線技士の無線従事者免許証。

[コンテストに初参加]

1964年9月、野瀬さんは第2級アマチュア無線技士の資格を取得し、14、28MHz帯の運用許可も受ける。1965年頃になると、運用モードはCWばかりとなっていた。電話と比べると電信の方が飛ぶからである。野瀬さんは、1965年11月に開催されたCQWWDXコンテストの電信部門に参加した。このコンテストが野瀬さんが本格的に参加した最初のコンテストとなった。コンテストで32局とQSOでき、すっかりコンテストの魅力にはまってしまった野瀬さんは、以後、DXコンテスト中心の運用スタイルとなっていく。「私の記憶に有るこの頃のDXコンテストでは、JA1BK溝口さんやJA1VX香取さんが、いつも大活躍していた時代でした」と話す。

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自宅にパンザマストを建柱中の野瀬さん。

電話のコンテストにエントリーしなかったのは理由があった。当時の電話はAMが主流であり、占有周波数帯域幅の広いAMでは、コンテストになるとバンドが一杯になってしまい、とても新顔でローパワーの局が出られるような雰囲気では無かった。翌1966年、USSR DXコンテストの電信部門に参加した野瀬さんは初入賞を果たす。日本5位という成績であった。このころの野瀬さんはアンテナにハイゲイン社製のバーチカル14AVQを高さ10mのパンザマストのトップに取り付けて使っていた。

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初めて入賞したUSSR DXコンテストの賞状。

[結婚する]

1966年10月、26歳になった野瀬さんは和子夫人と結婚した。それを機会に鳴海町の実家から、名古屋市中川区に転居することになった。その新居で新婚生活に入ることになるが、無線のアクティビティが衰えることは無かった。というのも、その頃の野瀬さんは、コンテスト中心の運用のため、コンテストの無い週末は家族サービスを行うことができ、メリハリのついた運用を行うことができたからだ。「コンテストの週末に集中して運用してきたことが、アマチュア無線を長く続けてこられた秘訣だと思います」と野瀬さんは話す。

1967年には、長女さやかさんが誕生した。野瀬さんは、「娘を膝に乗せて電鍵をたたいていたこともありますよ」と話す。1969年、この頃には市販のセットも出回っており、野瀬さんは第6送信機まで増設して変更申請を出し、1.9MHz〜430MHzのオールバンド、モードはCW/AM/SSB/FMの免許を取得した。

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中川区のアパート脇に設置した14AVQ。

[転職する]

製薬会社に11年勤務した後、1970年、野瀬さんはどうしても無線に関する仕事がしたく、日立電子サービス株式会社に転職した。日立電子サービスは、現在ではITサービスベンダーとして有名であるが、野瀬さんが就職した当時は、通信機(有線・無線)の設置・保守を主力業務としていた。

その頃、親会社である株式会社日立製作所は、防災無線、タクシー無線などの業務用無線通信機を製造しており、日立製作所の全額出資により設立された日立電子サービスが、日立製作所の通信機(有線・無線)の設置、保守等を担当していた。名古屋支店の勤務となった野瀬さんは、待望の仕事に就くことができた。

[春日井市に転居]

転職後、野瀬さんは春日井市の高蔵寺ニュータウンにある公団住宅に転居した。「私は長男のため、いつかは実家に帰る予定で有った為、家を買う気持ちはまったくありませんでした」と野瀬さんは話す。高蔵寺ニュータウンは、名古屋市のベッドタウンとして開発された、大阪の千里ニュータウン次いで日本では2番目に古いニュータウンである。1968年より入居が始まり、約2万世帯5万人が暮らしている。

野瀬さんの新居は持ち家ではないため、アンテナを建てるには許可がいる。「公団から許可を得るのには、非常に手間と時間がかかりました」と話す。野瀬さんは、半年以上に渡って、名古屋市内にあった日本住宅公団(現都市住宅整備公団)の事務所に通って交渉したと言う。当初は「許可は出しません」と門前払いであった。前例が無いのだから、当然といえば当然の結果である。

[アンテナ設置許可を取り付ける]

それにもめげずに野瀬さんは、粘り強く通った結果、「固定の仕方はどうするなんだ」といった具体的な話をしてくれるようになり、相手はようやく交渉のテーブルについてくれた。半年以上にわたる交渉の結果、「電波障害が発生したら、すぐに電波の発射を中止する」という条件付きでついに許可が下り、野瀬さんは、公団住宅の屋上にアンテナを設置し、晴れて新居からの運用をスタートすることができた。

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日本住宅公団から下りた「アマチュア無線アンテナ設置」の承諾書

しかし、数年間運用していると、近くで、無許可で電波を出す輩が多数現れた。この頃は、アマチュア無線局数が極端に増加した時期であった。それらの局が、野瀬さんのアンテナを見て、「自分もアンテナを屋上に上げさせて欲しい」と許可を求めて、管理事務所に強引に申し入れたが、当然のことながら管理事務所からは許可は出ず、そのため、無許可で運用を始めたのであった。それらの局がTVIをまき散らしたため、住民から管理事務所に度々クレームが入った。

さらに、野瀬さんは、「退去するまで有効」という公団からの許可書を持っていたが、「あのアンテナが上がっているのに、なぜ自分にはアンテナ設置の許可が出ないのか」と、無許可で電波を出している局が、管理事務所に多数クレームをつけるようになった。管理事務所としてはその対応に苦慮し、その結果、公団の管理事務所から、「申し訳ないがアンテナを下ろしてくれませんか」と野瀬さんに頼んできた。野瀬さんとしては、絶対にTVIを出していない自信はあったが、渋々ながら承諾することになる。その間4、5年であったが、屋上に設置したHF用のバーチカル(14AVQ)と、VK9ZYXともQSOできた50MHz用のダイポールの2本で運用を楽しんだ。