[移動運用]

一旦は、公団住宅からのアンテナ撤去の依頼を飲んだ野瀬さんであるが、アマチュア無線をやりたい気持ちが衰えることはなく、運用を中断している間、どうしたらアマチュア無線を続けられるか色々と検討していた。その答えの一つが移動運用であった。アンテナを撤去してからの3〜4年間、野瀬さんは、移動運用でコンテストにエントリーした。移動先は知多半島の先端にある南知多町の小高い丘で、会社の同僚JA2ATE森島さんと一緒によく移動した。

その丘には無人の小さな神社があって、しばしば移動しているうちに神社の関係者と知り合いになり、野瀬さん達は、神社の小屋の管理人から小屋の使用許可を得る事ができた。それまでは、狭い車の中から運用していたが、以降は小屋の中から運用できるようになった。運用する毎に発生するアンテナの設営と撤去、それに自宅からの機材の運搬は必要ではあったものの、車の中と違って小屋の中で運用できるので快適だし、AC100Vが使用できるため、発電機を持って行かなくても良くなったことが大きかった。さらに、水道まで使わせてもらえた。

余談ではあるが、野瀬さんはコンテストにエントリーする目的以外で、一度だけ移動運用を行ったことがあった。それは、1976年、JARL創立50周年記念事業の1つであった沖ノ鳥島へのDXペディション局(7J1RL)と交信するためであった。「せっかくの記念局だし、いっちょうやっておこう」という理由で移動運用を行い、「14MHzで無事にQSOできました」と話す。

[土地を探す]

当時すでにコンテスト中心の運用スタイルとなっていた野瀬さんは、南知多町の移動先からもDXコンテストにエントリーした。「ロケーションも良かったので結構飛びました。3エレ八木でもカリブの局ともQSOできました」と話す。それでも、次第に毎回毎回のアンテナの設営と撤去の労力が苦になってきたことと、移動運用では最大でも出力50Wしか出せないため、ハイパワー局には太刀打ちできなかったことで、森島さんと打開策を検討しはじめた。

その結果、野瀬さんと森島さんは、ロケーションのよい場所に共同の無線小屋を建設し、そこにハイパワー局を開設することに決めた。アマチュア無線用のいわゆる「別宅シャック」は、今では全国各地に建設されているが、当時はまだほとんど例の無かった時代である。さっそく、自宅からあまり遠くない距離で、コンテストを戦うために好条件の土地を探し始めた。

好条件とは、まず各方向に大きな障害物がないこと。とくに、得点源の北米方向、ならびに欧州方向に障害物がないところがベストである。次は、工場などの施設が近くにないこと。これは、その施設からノイズを発生させられると受信に問題が生じるためである。次に、民家が近くにないこと。これは、電波障害に気を遣うことが不要になるためである。そのほか、無線機を動かすための商用電源が引けることも必須条件である。

1979年10月のある日、野瀬さんは、岐阜県恵那郡蛭川村(現中津川市)の土地の売り出し広告を新聞のチラシで見かけ、JA2ATE森島さんと一緒に下見に行くことにした。高蔵寺ニュータウンも同じJR中央線沿線であったため、岐阜方面の住宅や土地のチラシはよく新聞に入っていたという。軽い気持ちで下見に行った野瀬さん達であったが、「ここなら、コンテストを楽しむべき条件にまあまあマッチするし、価格も手頃」と判断し、その場で即決し、野瀬さんと森島さんが各々100坪ずつ地続きで契約した。当時の野瀬さんは、「ゆくゆくは鳴海の実家に帰るつもりだったので、マイホームを建てるためのお金を貯める考えはなかったんです」と話す。

[森島さんと共同でシャックを建設]

蛭川の土地を取得した野瀬さん達であったが、無線運用をするためには、小屋(シャック)を建てないといけないし、商用電源も引かないといけない。とりあえず小屋だけを建設し、「はじめの頃は、発電機を使って移動運用スタイルで運用しました」と話す。アンテナは移動用伸縮ポールを使った仮設で、ローテーターはなかった。そのためブーム先端から垂らしたロープを引っ張って回転させた。

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移動運用スタイルで仮設したアンテナ。回転用のロープが見える。

一方、小屋の建築発注と同時に、パンザマスト2本の建柱も発注したが、こちらは、安くあげるため、業者に納期を指定せずに、「いつもでもいいから暇なときにボチボチやってくれ」と発注したため完成が遅くなり、1年がかりで建柱が完了した。2本のパンザマストが建ってから、ようやく中部電力に商用電源の引き込みを発注したが、3線式で引いてもらったため、「結構費用がかかりました」と話す。小屋へ電源を引き込む最終電柱まで6KVで引いて、トランスをつけてもらった。

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1980年から使っている無線小屋。

[アンテナを載せる]

パンザマストも建ち、電源も引けたため、いよいよアンテナを設置する段取りになった。南側のパンザマストに、21MHzの7エレ八木と、28MHzの7エレ八木を載せ、北側のパンザマストに、7MHzの2エレ八木と、14MHzの4エレ八木を載せた。1.9MHzと3.5/3.8MHzはパンザマストを利用して、ダイポールを設置した。アンテナの設置は業者の応援を得て森島さんと応援1人の3人で行い、小屋の中の配線その他は森島さんと2人で休みを利用して行った。

1981年末にはHFオールバンドのアンテナシステムを含めた別宅シャックが完成したため、まずは移動しない局の設置場所をここに変更し、すぐに100Wへの変更申請を行った。当時は10Wを超える局は変更検査が必要な時代であった。V/UHFはあまり興味はなかったが、免許だけは受けておこうと考え、50MHzから1200MHzまでの全バンド用に、GPなどの簡単なアンテナを用意した。

1982年6月23日、東海電波監理局(現東海総合通信局)から2名の検査官が変更検査に来局した。ベテランの方の検査官は、野瀬さんの本業である業務局の落成/変更検査で何度も検査をしてもらったことがあった顔見知りの検査官だった。一通りの測定が終了した後、若い方の検査官が、「今からTVIの検査をするのですけど、どうしましょう」と言い、「どこを見て来るんだ」と笑い話になったという。当時、野瀬さんの無線局の周りに人家は全くなく、もちろん野瀬さんの無線小屋にもテレビは無かった。問題なく変更検査に合格し、野瀬さんは1.9〜21MHz100W、28〜430MHz50W、1200MHz1Wのライセンスを受けた。

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野瀬さん達のコンテストシャックにそびえ立つ2本のパンザマスト。