[アンテナを取り替える]

7MHzのアンテナは当初ルソーの2エレ八木を使用したが、トラップの先のエレメントが破損して落下した為アンテナの取替が必要となり、数年後にクリエートデザインの3エレ八木に取り替えた。しかし7MHzの3エレ八木となると受風面積が大きいため、同じパンザマストに上げている14MHzのアンテナを強化する際、再び2エレ八木に戻している。その時は移相給電のクリエートデザインのAFA40を上げた。14MHzは、モズレーの4エレ八木から、クリエートデザインの6エレ八木に取り替え、主力バンドの性能強化を行った。

その他、7MHzと14MHzの八木アンテナを上げている北側のパンザマストには、後年50MHzのクリエートデザインの6エレ八木を追加搭載した。野瀬さん自身は、DXコンテストの対象にならない50MHzには、現在はあまり興味がないと言うが、野瀬さんのシャックで設備共用の免許を受け、国内コンテストに参加している「若手コンテスターの為に設置したのですよ」と説明する。

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北側のパンザマストに上げたアンテナ群。上から7MHz2エレ八木、50MHz6エレ八木、14MHz6エレ八木。

南側のパンザマストに搭載したクリエートデザインの21MHz7エレ八木、28MHz7エレ八木の2本は、別宅シャック開設以来30年近く一度も取り替えずに、現在も使っている。野瀬さんの無線局は抜群といえるロケーションでは無い分、心配したほど風の影響を受けず、「30年来上げっぱなしだが、1度も風でアンテナの致命的な損傷を受けたことがない」と言う。しかし、雷は怖いので、「運用しないときは、すべての同軸ケーブルを抜き、ナイフスイッチでAC電源を遮断し、念のために屋外につけたブレーカーも落としています」と説明する。

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南側のパンザマストに上げたアンテナ群。上から28MHz7エレ八木、21MHz7エレ八木。

[さらにパワーアップ]

1986年、野瀬さんは第1級アマチュア無線技士の資格を取得する。別宅シャックから本格的にコンテストに参戦するようになると、やがて100W出力では限界を感じるようになったからだ。野瀬さんは、電話部門へのエントリーも始めていた。現在、ほとんどのコンテストではローパワー部門が設置されており、100W出力でもこのローパワー部門で楽しむことができるが、当時は、QRP以外のパワー区別が無く、100W局もすべて500W局と同じ土俵で戦わねばならなかった。

特に電話(SSB)は出力差が歴然としており、ローパワーでは入賞することが難しかった。1986年9月25日、野瀬さんは500Wへの変更検査に合格し、当時の国内最高出力500Wのライセンスを得た。十分に海外まで飛ばすことができる500W出力になったことから、各種コンテストの電話部門でも入賞を重ねるようになっていった。

[家族全員がハム]

話は変わるが、野瀬さんの次女涼さんは、小学4年の時、野瀬さんがコンテストシャックで運用する姿を見て、「かっこいい、私もやりたい」と言い出し、その年の夏休みに名古屋市のJARL東海地方本部で行われていた、電話級(現4級)の養成課程講習会に一人で春日井市から通った。講習会の教科書は大人向けのものであり、漢字も多く、小学4年の涼さんには難解であったため、母親の和子さんが教科書にすべてふりがなをふって対応したと言う。ちなみに和子さんは、野瀬さんと結婚してから電話級を取得し、ほとんど運用はしていなかったがJA2JQBのコールサインを持つハムであった。

今でこそ、第4級アマチュア無線技士養成課程講習会の講習時間は10時間で、2日間の受講で資格取得が可能になっているが、当時の講習時間は、法規20時間、無線工学20時間で合計40時間あり、夏休みといえども8日間通わなければならなかった。それでも、涼さんは、すべての講習を欠席せずに受講し、最終日の修了試験にも合格して、電話級アマチュア無線技士の資格を取得した。野瀬さんは、娘のために新品の10W機(FT-101ZSD)を購入して開局申請を行い、涼さんはJG2UODのコールサインで開局した。

それを見た長女のさやかさんは、「妹に馬鹿にされるわけには行かない」と言って、独力で勉強し、国家試験に合格してJI2TAQで開局した。さらに、三女の桂さんも、就職してからではあるが、「姉2人が持っているから」という理由で、国家試験を受験して電話級を取得した。開局までは至らなかったが、かくして、野瀬家は家族5人全員がアマチュア無線のライセンスを得ることになった。

[JG2UODの初交信]

さて、真っ先に免許を取った次女の涼さんの初交信の相手は、歴戦のDXerでも交信が難しいと言われる南氷洋に浮かぶオーストラリア領ハード島のVK0HIであった。この局はDXペディション局であるが、たまたまこの時期に同時に2つのグループがハード島へDXペディションに行ったため、一時的に交信がしやすい状況であったことと、DXペディション終盤でCQ連呼の状態であった時を、28MHzSSBで見つけた。

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野瀬さんは無線に関する古書集めも趣味としている。写真の書には1947年、戦後初めてハード島に行き無線運用(ただし業務通信)を行ったことなどが記されている。筆者はオーストラリア海軍の通信士。

涼さんは、父親の野瀬さんのアドバイスでマイクを握り、わずか10Wの出力でVK0HIをコールしたところ、幸運にもコールバックがあり、無事にレポート交換を終えて交信が成立した。ハード島との交信がどれだけ難しいかを涼さんは知るはずもないが、結果的には、初めての交信相手が超珍局だったことになる。

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VK0HIのQSLカード。

その後、なぜか涼さんのアマチュア無線に対する熱が冷めて行き、ヨーロッパの局3局と日本の局1局、前述のVK0HIを加えても合計5局とQSOしただけでやめてしまったという。せっかく新品の機械まで買い与えたのにと野瀬さんは残念がるが、涼さんは元々理系科目の勉強が好きで、大学も建築科を卒業し第1級建築士の資格も取得している。