[尾張旭市の新居]

高蔵寺の公団住宅で暮らしていた時代、東名高速道路の名古屋インターチェンジ近くに、スパゲッテイとパンのおいしいレストランがあり、野瀬さんは時々家族で食事に出かけていた。そのレストランに食事に行く予定であった1985年の休日のある日、たまたま新聞の朝刊に入っていたチラシを眺めていたところ、尾張旭市に新築予定のマンションの広告を見つけた。

先にも触れたが、野瀬さんは、将来は名古屋市緑区鳴海町の実家へ帰る予定があったので、マイホームを購入する意志はなかったものの、たまたま通り道だったし、子供が大きくなり公団住宅の部屋が手狭になったので、「ついでだから、どんなものか見てみようか」ということで、レストランへ向かう途中、16時過ぎに家族で現地に立ち寄った。

[その日に購入を契約]

現地のモデルルームに到着し、完成図を見ると、ほとんどの部屋が3LDKであったが、各フロアの東西両端の2部屋が4LDKで、そのとき偶然にも、既に購入申込者のあった最上階の4LDKの部屋が、購入申込者からキャンセルの電話が入り、販売説明員から「今なら抽選なしで契約できますよ」と言われた。

野瀬さんには娘が3人おり、将来は娘1人に1部屋ずつ与えたいという気持ちがあったため、自分たち夫婦の部屋を加えて最低4部屋は必要であった。また、できれば自宅からも少しは無線をやりたいとの思いもあったため、住むとしたら最上階と考えていた。まさにこの希望にマッチしたのである。娘たちは、「名鉄電車の駅が近く、名古屋市の中心街まで30分で行くことができるのでここがいい」、と購入に賛成し、結局その場で購入を契約してしまった。

後で分かったことだが、最上階にはエレベーターが通じておらず、引っ越し前に掃除に行った時、「なんじゃコレはと思いました。当時は40才ちょっとすぎで若かったのであまり苦にならず、まあこんなもんか、しゃあないなあとは思いましたが、今となっては大変です」と話す。野瀬さんの購入したマンションは、合計207部屋もある大きなマンションだが最上階の11階には6部屋しか無く、10階までしかエレベーターが通じていなかった。11階を購入した野瀬さんは、10階でエレベーターを下りた後、1階分、階段を登らなければならなかったのである。

[新居に引っ越す]

1985年5月に契約を交わし、翌1986年の1月に建物が完成して入居できるようになったが、子供達の学年が変わるときが引っ越しのタイミングにはベストと考え、4月から新しい学校に通えるよう、野瀬さん一家は3月の終わりに引っ越しを行った。

入居後の無線運用であるが、アイコムのIC-721と、オートアンテナチューナーAH-3を購入して、ベランダにロングワイヤーアンテナを展開し、アースはベランダの手すりに取って10MHzのCWをメインに運用した。14MHzのSSBではアフリカとも交信できたため、「結構飛ぶなあ」ということを確認して、以後は止めてしまったという。飛ぶとは行っても蛭川のシャックでの飛びとは比較にならないことと、当時はもう自宅から熱心にアマチュア無線をやろうという気にはならなかったことが理由である。

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野瀬さんが使用したIC-721とAH-3。

[記念局の運用]

その頃、野瀬さんは、記念局の運用にも携わっている。まずは1989年に名古屋市で開催された「世界デザイン博覧会」のJARL特別記念局8J2DEPである。この局は熱田区の白鳥会場内にあった集合パビリオン「夢集合観Σ21」の中に設置された。当時の東海地方本部長であったJH2XPV杉山さんから「運用・管理者のメンバーになってほしい」と頼まれて引き受け、博覧会の通し券を購入して、主に週末に通ったという。

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JARL特別記念局のブース

しかし、野瀬さんは実運用より、運用管理を担当することの方が多かった。「日程表を作ってオペレーターの管理をしました」と話す。他に誰もオペレーターいないときはもちろん自ら運用も行ったが、当時の記念局は運用すると運用者がQSLカードを手書きせねばならなかった。そのため、いつものコンテストスタイルでパイルをさばいてしまうと、後が大変なので、あまり積極的には運用は行わなかった。それでも、JG2GFX種村さんから、「QSLカードは私が書くから運用して欲しい、と頼まれたときにはおもいっきり運用しました」と笑って話す。

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8J2DEPのQSLカード。

その他には、世界電気通信日(5月17日)を記念して、後に、日本国際博覧会(愛・地球博)の会場となった長久手町の青少年公園で運用された、8J2ITUの運用にも携わったことがある。こちらはトータル3日ぐらいの運用であり、あまり局数はやらなかったため、「QSLカードの手書きは負担にはなりませんでした」と話す。

[各種イベントに参加]

アマチュア無線のイベントとしては国内最大のものが、毎年8月に東京で開催される「ハムフェア」であるが、野瀬さんも、このイベントによく参加していた。「かつては10年ぐらい連続して参加したこともあります」と話す。その頃は、仲間同士で1台の車に5、6人で乗り合わせて東京まで行った。宿泊はいつもJA2HDE木村さんが手配してくれ、1泊2日の日程が多かったという。「最近はあまり行かなくなりました」と話す。

また、JARLの愛知県支部大会にも毎年参加していた。このイベントには愛知県監査指導委員会でブースを出していたからである。ブースでは委員会の活動内容に関するちょっとした展示を行ったり、カウンターを設けて、来場者からの電波障害対策の相談に応じたりしたという。この時代、野瀬さんはその他にも、関西DXコンペンションや、東海DXコンベンションに参加している。

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1988年開催の第3回東海DXコンベンションのパンフレット。(カリブ海へのDXペデションを実行した、JA2EZD米塚さんの苦労話が掲載されている)