[中国を訪問する]

中国ではアマチュア無線はスポーツの一種に区分され、体育協会の傘下に入っている。大きな町毎に少年宮という施設があって、学校とは別に、各種のスポーツはもちろん、青少年に対してあらゆる教育(例えば、絵画、書、語学、音楽、囲碁など)の英才教育を行っている。その一つにアマチュア無線局(クラブ局)が開設されており、青少年の通信訓練を行っている。

1995年は南京市五台山にある体育協会(陸上競技のグランド、宿泊施設、およびレストランなどを備えているかなり大きな施設)内の無線局(BY4RSA)の開設10周年にあたる年だった。10年前の1985年、JARL理事のJH2XPV杉山さんが代表を務めたJARL訪中団が、機器の贈呈を行ってこの局が開局していた。一方、南京市と名古屋市は姉妹都市提携を結んでおり、「BY4RSA開局10周年記念の式典をやるから来てくれないか」と、中国側から杉山さん宛に招聘状が届いた。この招聘状に基づいて、JARL愛知県支部の関係者を中心に、杉山さんが団長で、野瀬さん等10人位で訪中した。

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1995年に訪中したJARL愛知県支部のスタッフ。

[海外からの初運用]

「式典は江蘇省の高官も出席する大変盛大なもので、上海テレビが取材に来ていました」、と野瀬さんは話す。この訪問に際して、野瀬さんは中国での運用許可書 (有効期間1年)を得た。このオペレーションライセンスは、野瀬さんが初めて取得した外国のライセンスだった。野瀬さん達は南京市訪問後、蘇州市も訪問の予定があり、南京市で知りあったBY4SZの台長(クラブ局の代表者)である季雪龍さんの好意で、蘇州市のBY4SZを訪れることになり、そこから「JA2BNN/BY4SZ」のコールサインで運用した。QSO数は30局程度と少なかったが、これが野瀬さんにとっての初めての海外運用となった。

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野瀬さんが取得したオペレーションライセンス。

これを機会に、江蘇省の体育協会とJARL愛知県支部で、1997年から1年ごとにお互いに行き来して親睦を深めましょうと協定を結んだ。若い頃からシルクロード・中国史が好きで、シルクロード関係の本や中国史関係、例えば十八史略など、多数の中国関係の本を読んでいた野瀬さんは、初めての訪中で益々中国という国が気に入り、相互交流が始まる前の1996年に和子夫人と知人夫婦の合計4名で西安に旅行に出かけている。1997年になり、中国側から訪日する計画が立てられたが、当時は中国から日本への入国に対して簡単にはビザが下りず、中国側の訪日はダメになった。「JARL原会長から関係各所へビサが降りるよう尽力して頂きましたが、最終的にビサは下りませんでした」と野瀬さんは残念がる。

[何度も訪中する]

一方、日本側からの訪中に関しては、ビザの取得に関して特に問題が無いため、野瀬さん等は翌1998年に南京市、蘇州市を中心に江蘇省を再訪問した。翌1999年は、ついに中国側にビザがおり訪日団が来日した。それでも「24時間、行動を共にしろ」という外務省の条件つきだったため、名古屋での宿泊時には、野瀬さん達も同じホテルで一緒に宿泊したという。

その後は1年ごとに日本側(JARL愛知県支部)の訪中、中国側(江蘇省体育協会)の訪日が順調に行われるようになった。JARL愛知県支部での訪中は、江蘇省のARDF地方大会の日程に合わせて出向くことが多く、開催地に合わせて、蘇州市(そしゅうし)・南京市・無錫市(むしゃくし)・鎮江市(ちんこうし)など江蘇省の各都市に行った。

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無錫市で開催された2002年江蘇省ARDF大会のゴール地点の様子。

野瀬さんは、JARLでの訪中に加えて個人でも中国旅行に出向き、ほぼ毎年のように中国に出かけている。「アマチュア無線関係だけでも5〜6回、アマチュア無線関係以外の中国旅行を含めると、もう15、16回位行きました」、「メジャーな観光地はそんなに行っていませんが、内蒙古、敦煌などが面白かったです」と話す。

[パオに泊まる]

2004年、野瀬さんは小学校4年生の孫の穂(えい)さんと2人で、北京からほぼ真北約700kmにある内蒙古自治区の東に位置する錫林浩特市(しりんふとし)に向かい、市の郊外約150kmにある大草原を旅行した。目的は、観光用に作られたパオではなく、現役のパオに泊まる経験を孫にさせる事と、日本の都会ではほとんど経験出来ない、満天の星空観察を経験させる事であった。パオと呼ばれる住居は、主にモンゴル高原に住む遊牧民の移動住居のことで、直系5m程度の円形をした可搬型で、遊牧民の移動に合わせて運搬ができるように、1時間程度で簡単に組み立て、解体が行える構造になっている。

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野瀬さんらが泊まったパオ。

現地では、360度大草原の地平線が広がり、滞在した3日間、宿泊していたパオの所有者である遊牧民が作ってくれたお昼の弁当を持って馬に乗り、その遊牧民の案内でパオから2〜30kmくらい離れた草原まで、ホーストレッキングをすることしかやることがなかった。夜は旅行の最大の目的であった現役のパオに宿泊したが、「真夏の8月とはいえ、夜は大変寒かったです」と話す。小学生を名所旧跡に連れて行ってもおそらく興味は示さないと考え、この旅行では、馬に乗りパオに宿泊しただけで帰ってきた。それでも、穂さんは大感激していたという。「来年2009年には、別の孫をパンダの飼育ツアーに連れて行ってやりたい」と話す。

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モンゴル高原で乗馬を楽しむ穂さんと野瀬さん。

[砂漠に植林]

2007年には、内蒙古自治区の西に位置する包頭(ぱおとう)の南、約200kmにあるクブチ砂漠の植林活動に参加した。このクブチ砂漠は、日本に飛来する黄砂の発生源とされる砂漠の一つで、近年急速な砂漠化が進み、周辺の農地や牧草地を飲み込んでいるが、砂漠化の原因の一つは、我々日本人にも責任があると言われている。それは、日本が大量に買付けるカシミアである。

現地の農民は、カシミアの素材を少しでも多く得るためにカシミア山羊を過放牧する。このカシミア山羊は牧草の根まで掘起こして、牧草を食べつくしてしまうため、草原の砂漠化を急激に進める結果となっている。この為、住民に与える被害はもちろん、黄砂によって日本を始めとする広い範囲の人々に深刻な被害を与えるなど危険な状況にある。「この砂漠に植林を行い砂漠の緑化を推進する事は、日本人として非常に意義のある事です」と野瀬さんは語る。

このプロジェクトは全国組織の日本砂漠緑化実践協会が主宰するもので、その下部組織に、野瀬さんが住んでいる尾張旭市にある名古屋産業大学がある。この名古屋産業大学で砂漠に関する講演が行われることを市の広報誌で知った野瀬さんは聴講に訪れ、砂漠緑化の活動を知ることになった。そして砂漠緑化の活動に感銘をうけた野瀬さんは、植林の実働部隊としてのボランティアスタッフに応募し、クブチ砂漠へと向かったのであった。

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クブチ砂漠でポプラの植林作業中の野瀬さん。ポプラは乾燥に強い。

[砂漠緑化活動]

この日本砂漠緑化実践協会は、日本の砂地農地化研究の第一人者であり、鳥取砂丘におけるラッキョウ栽培を実用化した鳥取大学の故遠山正瑛教授が、退官後1991年に設立したもので、設立当初よりクブチ砂漠の緑化活動を開始し、毎年「緑の協力隊」として全国から募集した日本人ボランティアスタッフを現地に送り込んでポプラの植林を進めている。野瀬さんはこの「緑の協力隊」に参加したのである。これら日本人ボランティアと現地の中国人により、すでに300万本の植林が達成され、かつて砂漠だったところはポプラの森となり、森と森の間は畑になっている。また、森には小鳥を始めとして色々な生物が生息しはじめている。

全日程は8日間だったが、日本から現地までの移動に時間がかかるため、現地での活動は3日間に限られ、はじめの2日間が植林、最後の1日が以前に植えた木の剪定にあてられた。野瀬さんが参加した協力隊は全部で30人くらいが参加しており、約2000本の苗を植えたという。苗木1本植えるには砂漠に深さ1mぐらいの穴を掘らないといけないので、「考えていた以上の重労働でした」と話す。それでもチャンスがあればまた参加したいと言う。

[その他の旅行先]

野瀬さんは、旅行先として、中国が一番のお気に入りだが、アジアを中心に、その他の国にも出かけている。初めての海外旅行は、半分仕事半分遊びで、まだ成田空港が無かった時代に羽田空港から出発した1977年の台湾、フィリピンであった。その後はシンガポール、タイ、香港、インドネシアなどに出かけている。「同じところに何度も行くのが気に入っているんですよ」と話すように、中国の15、16回を筆頭に、正確な記憶ではないと言うが、シンガポール、香港、マレーシア、マカオ、台湾には3回以上、タイ、インドネシアに2回など、たいがいの所は複数回訪れている。

しかし、韓国だけは1度しか訪れていない。理由は、「飛行場で入国ゲートを通過するのに4時間も待たされたことと、今ではそうでもないでしょうが町中は、地下鉄を始め公共の施設でもハングル語の表記しか無く、旅行者に不親切な国だと感じたからです」と話す。2007年には初めてヨーロッパ旅行に出かけ、ベルギーに滞在している知人のところを訪ね、10日間かけて、フランス、ベルギー、オランダを回ってきた。

「次は、中国の西域でタクラマカン砂漠西側のキルギスタン、タジキスタンとの国境に近い、カシュガル辺りまで行ってみたい」と抱負を語る。その他、野瀬さんは無線運用のために数ヶ国訪れているが、それらについては次回以降に紹介する。