[電波障害対策活動で表彰される]

野瀬さんは、アマチュア無線の普及、発展への貢献に対して多くの表彰を受けている。まずは1986年、JARL創立60周年記念式典で、地域のアマチュア無線の普及への貢献に対して表彰を受けた。続いて1992年、アマチュア無線再開40周年記念式典では、多年にわたるアマチュア無線の普及への貢献に対し表彰された。1995年には、19年間に及ぶ監査指導委員長としての活躍に対し、さらに1996年のJARL創立70周年記念式典でも、多年に渡る連盟事業への貢献で、JARLから表彰されている。

1996年5月には、東海電波障害防止協議会(事務局は東海電波監理局内)から、電波障害対策の円滑な推進への功績によって表彰された。同協議会や東海電波監理局と協力してJARL愛知県監査指導委員会として、電波障害の実態と除去対策に関する報告書をまとめるなど、長年活動してきたことを讃えられたものだった。この年の表彰対象は、個人1名、団体2組で、個人は野瀬さんだけであった。

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東海電波障害防止協議会から表彰される。

その他、2008年には、JARL会員歴50年表彰を受けている。野瀬さんは開局が1960年なので、アマチュア無線運用歴はまだ50年に達していないが、1957年に准員としてJARL会員となっており、その後50年間会員を継続したため、表彰を受けたものである。一度もアクティビティを絶やすことなく、50年間、同じ趣味を続けられることは並大抵ではできない。

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JARL会員歴50年で表彰される。

[本業について]

1970年、日立電子サービス株式会社に転職した野瀬さんであったが、転職した目的は直接無線に関係する仕事をすることであった。面接時には、前職が営業職であった為、「営業の仕事をしないか」と言われたが、「営業採用なら入社しません」と強気な要求をして、技術要員として採用してもらった。野瀬さんは、「正式な無線の教育を受けていないため、当時の真空管の機器の修理位しかできませんでした」と謙遜するが、晴れて無線の技術職として採用されたのだった。しかし、入社後わずか半年で、営業への転属の辞令を受けることになり、そのまま退職するまで営業職を続けることになる。

営業とは言っても無線機や、無線システムの販売が主たる業務のため、以前勤務していた製薬会社の時の様に、全く無線と無関係という訳ではなかった。また、名古屋勤務から異動させられることも無く、最後まで自宅から通勤できたことは幸運であった。地方への転勤となると、一番の楽しみであるコンテストにもろくにエントリーできなくなる。「技術職は転勤が頻繁にありますが、自分は入社時に望まなかった営業職になり、結果として転勤がなかった事は幸いでした」と野瀬さんは話す。

[転勤がなかった理由]

転勤がなかったのは理由があって、名古屋の市場が保守的という特殊事情だったからである。営業は長年のつきあい、つまり顔が大事とされ、他の地方から中部支店に転勤させてもすぐには使い物にならないことが多いため、営業職での地方から中部支店への転勤は、入社数年の若い人がほとんどで、それらの社員は名古屋の経験を4〜5年積んだ後、他の支店や営業所に転勤していった。

野瀬さんのような生粋の名古屋人である営業職のほとんどは、中部支店から外に出て行くことはなかった。中部支店長に至っても、前述の特殊事情のため、一部の例外を除いて、歴代生粋の名古屋人が歴任していた。「転勤はありませんでしたが、事務所はおおよそ10年毎に、名古屋市中区内の別のビルに変わりました。それは消防法等の改正や、手狭になったなどの理由によるものです」と話す。

1993年になると、日立電子サービスが無線通信事業から撤退し、日立製作所の系列会社の一つである、日立電子株式会社(現日立国際電気株式会社。無線機をはじめとする通信機器の製造会社)の子会社である、株式会社日立電子システムサービスに事業を譲渡した。そのため、無線通信事業に携わっていた社員がそのまま株式会社日立電子システムサービスに転属した。会社は変わったが業務の内容に変化はなく、野瀬さんは引き続き無線通信事業の営業を担当し、防災行政無線システム等の営業を行った。苦労したのは「業務用の周波数を電波管理局から割り当ててもらって免許を得ることでした」と話す。

[社長に就任]

その後1997年、野瀬さんは全国に5社ある株式会社日立電子システムサービスの子会社のひとつである、株式会社名古屋エッチエスに出向し、同社の代表取締役社長に就任する。翌年1998年には、そのまま株式会社名古屋エッチエスに転属した。その後、株式会社名古屋エッチエスは、株式会社静岡エッチエスを吸収合併し、社名も株式会社中部エッチエスに変更して、中部7県の防災行政無線システム等の通信機器、およびITVシステムの保守、点検、工事を担当した。野瀬さんは、2003年に退職するまで、株式会社中部エッチエスの社長を続けることになる。

「仕事はますます忙しくなったが、逆にコンテストはやりやすくなりました」、「それはコンテスト明けの月曜日に会社を休みやすくなったからで、事前に自分自身で月曜日の段取りをきちんやっておけばよかったからです」と野瀬さんは話す。どうしても月曜日に自分で処理が必要な仕事がある時は、「朝9時のコンテスト終了後に会社に向かい、昼前には出社して対応しました」と話す。