愛知県一宮市の駅から約3㎞、今伊勢町本神戸に、3階建ての赤茶色の建物がある。入り口には「神戸電波」としか書かれていないが、発足時には「神戸電波物理研究所」であり、現在は「神戸電波研究所」である。神戸さんは、戦後ほどなくして勤務していた東京の研究所から故郷に帰り、私設の研究所を設立したが、現在の建物は規模を拡大した二代目である。研究所の内部は、その頃から戦後すぐに集めた無線機、計測器、さまざまな電子機器で埋まっており、二階中央部に人が3、4人ほど座れるテーブルと椅子があるのみ。この方が落ち着くせいか、神戸さんは今でもしばしばここにやってくる。

神戸電波研究所--昭和30年代に立て直したものである。

神戸さんは大正8年(1919年)、この一宮市で生まれた。神戸家はかっては大地主だったらしく「父親は定職を持たず生活していた」という。神戸さんは好奇心おう盛な少年時代を送ったらしい。ただし「蛙の解剖だけは嫌いで、昆虫少年にはならなかった」という。大正14年はわが国のラジオ放送のスタートの年であり、名古屋では現在の中区丸の内に社団法人名古屋放送局の局舎が設けられ6月23日に試験放送が開始され、7月15日に本放送が開始された。1日4時間31分の放送を行なうJOCKの誕生である。出力1KW、聴取料金は月額2円であり、契約視聴者は3200軒だったという。この当時ラジオ受信機は高価だった。神戸さんは「いつ頃からだったかはっきりしないが、放送が始まってしばらくしてからラジオ受信機づくりに取り組んだと思う」という。

当時は、鉱石検波器で送られてくる電波の中から音声信号を取り出し、マグネチック型のヘッドホンでラジオ放送を聞いていた。ラジオの作り方は、当時発刊されていたラジオ雑誌に書かれていたが、神戸さんはこれらの部品を近くのラジオ屋から買い、組み立てに夢中になったという。この頃、東海地区では名古屋の大須にラジオ用のパーツを販売している店があった。しかし、神戸さんは「わざわざ名古屋に行った記憶はあまりない。近くのラジオ屋さんで間に合った」という。ラジオづくりはおもしろく何台か作ったが、その内により高感度のラジオを作りたくなった。この頃、雑誌「無線之研究」や「無線と実験」をむさぼり読み、図書館に出かけて、関係書を読みふけった。

余談ではあるが「無線之研究」は大正13年、東京にあったラジオ受信機と電子部品の大手メーカー田辺商店がスポンサーとなり、無線之研究社から発刊され、当初は中波の記事がほとんどであった。大正15年(1926年)6月に発足したJARLは、その年の12月にこの雑誌と契約し、短波の記事やJARLの動向を掲載してもらった。しかし、昭和2年に同誌は廃刊された。このため、JARLは昭和4年から「ラジオの日本」にJARLのページを設けてもらうことになる。アンカバー局の集まりとして発足したJARLは、その当時から広報活動に熱心であった。

雑誌「無線之研究」に掲載されたJARLの記事--JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より