神戸さんは国内のラジオを聞くことから、海外の短波受信に進む。そのころ良く聞けた短波は、フイリッピンからの海外放送だったという。当時、フイリッピンは米国の植民地であり、英語でキリスト経布教のための放送を流していた。神戸さんの一番上のお姉さんは、高等女学校を卒業し英語に興味を持っていた。「その姉に聞かせて喜ぶ姿がうれしくて、一所懸命に感度の良いラジオ作りに励んだことを思い出す」という。新しいラジオを作ろうとすれば真空管、C(コンデンサ)、R(抵抗器)などの部品や材料の購入には金がかかった。小づかいの範囲ではとても足りない。親にねだったりしたが、ある時、通っていたそろばん塾の月謝を使い込み、親にこっぴどく叱られた。

岐阜の中学を卒業後、名古屋の第6高等学校に進学。高等学校では神戸さんの無線通信技術のレベルは飛躍的に高まる。卒業後は陸軍通信学校の教官を勤める一方、全国各地の陸軍の通信部隊の教育にあたった。陸軍では通信は有線が確実に情報伝達でき、無線の信頼度には疑問がもたれていた頃である。教育では送受信機の回路、修理の方法の他、空中線(アンテナ)との接続、電池電源容量のチェック法などを教えた。

神戸さんはその教育の中で「必勝の信念を持つということは、銃をもつと同じ心構えで通信機のダイヤルを握らなければならない」と訓示した。「今思うと、20歳の若造の言う言葉でなかったが、当時は私自身、通信技術については誰にも負けないという自負があった」という。その後、三田にあった海軍技術研究所に就職。すでに、日米開戦がやむをえない状況にあったが、まだ、一般国民はそれらしい雰囲気を察していなかった。そこで神戸さんが取り組んだのは通信機の開発。1kW、2kW出力、7MHz帯の送受信機を作り、海軍の練習艦隊に載せて日本との間で通信し、日本側でそのデータを必死で記録した。海軍兵学校卒の艦隊乗組員には2週間の特訓で操作方法、修理方法などを教え込んだ。練習艦隊は多くは東南アジアに出かけていたが、戦後、神戸さんは「その頃から東南アジアとの交信状況を調査していたことに気づいた」という。

海軍技術研究所時代の神戸さん。

研究所は土塁に囲まれ、建物も頑強であった。かなりの爆撃にも耐えられる造りであり、庭には桜の巨木があったのを記憶している。研究所での神戸さんは知識欲が満たされ、また、行動力も満たされた。委託学生として大阪大学で研究生活を続けたこともあり、かって、雑誌で知り合っていた浅田常三郎教授の指導も受けることができ感激したという。練習艦隊との交信の他、満州や台湾などの日本軍とも好きなように交信できた。神戸さんはその時の相手の呼び出し符号である「チミ9」「ケナ8」などを今でも忘れない。「アンカバー通信であったが、逓信省(のちに郵政省、現在は総務省)から注意があっても、軍の力を背景にしており少しも怖くなかった」と、振り返る。

太平戦争が始まると、そのようなことはできなくなったが、日本軍の交信に対して米国の電波ががかぶさってきた。「今でいうとジャミングであり、どうして簡単に周波数に対応できるのか不思議であった。そのうち、日本軍が撃墜したと飛行機搭載の無線機を分解して理解できた」という。神戸さんらはすぐに対策を打った。「多分その時、米軍は日本の通信技術力もたいしたもの」と感心したはずという。

通信は、電信により数字を並べた暗号を使用した。数字の打ち間違いもあり、また、雑音により聞き取れない数字も発生する。それを防ぐために、多少、不確かな数字があっても読み取ることができる「破壊防止」式を編み出して取り入れたこともあった。現在の「誤り補正」の考えだった。昭和20(1945)年8月終戦。神戸さんは研究所でラジオ放送を聞いたが、その前に、通信を手がけている仕事柄うすうす情報は知っていた。しかし「負けるとは思っていなかったので信じられなかった」という。

神戸電波研究所の中には、海軍技術研究所時代に製作した機器類もいくつか残されている。