終戦後、研究所の整理を終えて、故郷の一宮市に戻ったが、ほどなくして神戸製鋼所の東京研究所から来て欲しいとの連絡を受け、勇んで上京する。この当時、岐阜大学からも教授として勤める話しがあったが、神戸さんは東京を選んだ。「研究生活の上では東京は魅力的な場所だったから」である。神戸製鋼所は、鉄鋼メーカーであるが太平洋戦争前から軍の意向を受けて通信機や車両製造の事業に手を出していた。この研究所でも自由に研究させてもらった。所長からは「人が揃わない。足りない。したがって、通信機に関する全般をやって欲しい」といわれ、好きなことができた。しかし、研究人員不足から研究所は解散され、神戸さんは再び一宮市に戻った。

故郷で、神戸さんはその後の人生についての一大決心をする。技術開発一筋で進んでいくことを決める。幸い、市内の自宅とは別な所に土地があった。約1000平米の敷地に木造で120平米ほどの研究所を建設し、「神戸物理電波研究所」と名付けた。好きな電波通信の研究を行ない、スポンサーを見つけながらの研究三昧を神戸さんは決断した。いわば、全国でもあまり例のない「私設研究所」生活のスタートであった。米国製の無線通信機、測定器などを購入するとともに、戦後しばらくは米軍の放出品の入札に出かけ、少しでも役に立ちそうな機材を買い漁った。「神戸はなんでも買ってしまう」と有名になったほどである。

「私設研究所」での研究を始めたのには、戦前戦後を通じて自由な研究生活の楽しさが忘れなかったからでもあったらしい。神戸さんは「1年1件の研究開発を自分に義務付け、学会に発表する。その研究に興味を持った企業からの委託研究を行なう」ことを計画した。昭和30年代の半ばには研究所を鉄筋3階建て延べ360平米へと3倍に拡大するとともに、電波遮蔽を全周に施す。窓ガラスはすべて銅線入りとし、苦労してアースを取った。神戸さんがその後、一貫してテーマとしたのは、電波の伝播状況、反射の状態,電波障害などが中心であった。

神戸研究所の内部。雑然としていかにも研究に没頭した雰囲気が伝わってくる。

この研究はテレビ放送が始まった時に大きく役だった。当時、テレビ受像機生産に乗り出すメーカーや、テレビ受信アンテナを手がけるメーカーが増加した。戦後、ラジオ放送開始にともない、電気店や電気に興味を持つ人々がラジオ受信機を作って販売したのと同じ現象が起こった。テレビの組み立てキットを発売するメーカーも現れた。神戸さんも自作のテレビ受像機を何台か作った。当時を振り返って「ブラウン管が手に入りにくく苦労した。米国のシルベニア製のブラウン管がきれいに画像を再生できたことを覚えている」という。アンテナは、銅パイプを長さを測って切り、木の棒に釘で打ちつけて八木アンテナを作った。

テレビ放送開始初期、大きな問題が発生した。実際にテレビが映るエリアがはっきりしないことであった。NHKを始め民間テレビも局には電界強度計を設備していたが、放送エリアのすべての測定は無理であった。地図上での電界曲線は描かれていても実測したものは少なく、途中に障害物があれば電波の信号が強くともテレビの受信は不可能である。当時は高価な電界強度計はテレビ受像機を販売する家電販売店のどこも持っていなかった。

したがって、テレビを販売し、購入者宅に届けて据付工事をして初めて、映らないことがわかりトラブルが発生することも少なくなかった。テレビ放送開始の頃、家電販売店の多くは、テレビ受像機が売れるとすぐに近くの竹竿屋に行き竹竿を買ってから購入者宅にテレビを設置、竹竿の先にアンテナを取り付けるのが常であった。運送用の車を待たない電気店も多い当時は重いテレビを自転車や、リヤカー、大八車に乗せて運搬したが、せっかく取りつけても映らなければ再び取り外してもって帰らなければならなかった。

研究所内の神戸さん。