神戸さんは、すでに周波数帯別の電波の伝播状況を調査しており、その対策ももっていた。チャンネルにより周波数が異なるため、アンテナの高さや、位置を少し動かすことにより、全チャンネルが受信できるポイントがあることや、当時は解消が難しいといわれていた電波の反射障害(ゴースト)も解決できるケースがあることを発表した。神戸さんは、家電販売店のためのやさしいテレビ据付工事の指導書を作った。

次いで、神戸さんが作り上げたのがテレビ電波の電波障害の評価尺度である。テレビ画面の映像の鮮明度を評価する基準としては、それまでは5段階のカテゴリー評価尺度があった。神戸さんは、さらにわかりやすく理論的な言葉に代えるとともに、7段階の数字表示に変えた。家電販売店からももわかりやすくなったと評価された。それに着目したのが、家電販売店の全国組織である全国電器小売商業組合連合会であった。神戸さんはこの組合の各地から講師に頼まれるようになり一時は多忙を極めた。

神戸さんが作り上げた「テレビ画面7段階評価表」

「研究活動では3~4年間、まったく無収入の時もありました」という神戸さんであるが、研究の成果はこのような形で実を結び始めた。昭和20年後半から30年代にかけては、日本の電波行政、電波業界は、いわば「ビックバン」の時代を迎えていた。25年(1950年)には「電波三法」と呼ばれる放送法、電波法、電波監理委員会法が制定される。米国の統治下にあったわが国が、少なくとも電波の分野での独自性を作り上げるきっかけとなった。そして、民間ラジオ放送の開局(昭和26年)、アマチュア無線の再開(昭和27年)、テレビジョン放送の開始(昭和28年)と電波の利用は急速に進んだ。

わが国の電波技術は、欧米先進諸国に比較して遅れていた。戦争中にレーダーやソナーなどでの技術格差を知らされていたが、戦後にこれら諸国の技術が日本に入ってくるにともない、具体的にその差の大きさに関係者は愕然とした。放送や通信への電波の利用のためにはまだはっきりしない技術分野も多かった。それだけに、神戸さんの活躍する余地は大きかった。「私設の研究所では測定器にしても、発振機にしても十分ではなかった。しかし、現場に即した電波の伝播研究は地味な仕事だけにあまりなされていなかった」と、当時を振り返る。

このへんで、神戸さんのアマチュア無線との関わりに移りたい。「戦前、戦中の研究所生活では好きな無線通信に触れてこれたので、アマチュア無線の免許が欲しいと思わなかった。しかし、一宮市に戻り研究所ができあがってしばらくすると、アマチュア無線を無性にしたくなった。昭和29年であった。許可されたコールサインはJA2JA。当時、ハムのあこがれであった米国コリンズ社の通信機も購入した。最初の1年間で約1000局と交信した。「私は、免許をもらってから2年ほどは熱心にやったが、その後はやはり、電波そのものの研究に方向転換した」という通り、アマチュア無線電波の及ぼす電波障害の研究に没頭する。

今年(2001年)10月に行われた「電波妨害防止月間」のポスター。神戸さんはいまでも活躍している。

テレビ放送の初期の頃は、テレビアンテナからテレビ受像機まではフィーダー線で結ばれていた。また、アマチュア無線の送信機も高調波など不要電波の発生防止機能が十分でなかった。このため、アマチュア無線を始めると近隣のテレビ受像機にノイズが入り、画面が乱れてしまったり、ひどい場合には交信の音声がテレビ受像機の音声となって聞こえてきたりした。TVI(テレビへの障害)として、しばらく後までアマチュア無線局が非難され、ハムにとっては悩みであった。その後、アマチュア無線機メーカーによる送信機の性能向上があり、一方ではテレビ受信では放送局網の充実による電界強度の上昇、受像機自体のイミュニティ(妨害排除能力)の向上、さらにアンテナケーブルがフィーダー線から同軸ケーブルに置きかえられるなど、妨害は急速に減少していった。