星崎さんからは、この講演の内容を含めて山口さんについての情報を教えていただけた。「山口さんは小柄で穏やかな紳士でした」というのが星崎さんの記憶である。講演の後、さまざまなことが話題となり、山口さんは「好きな無線をやらせてもらう代わりに、家業を継ぐ約束をさせられた」と苦笑し、「当時の通信機は、電源が電池式のため雑音がなく、良く聞こえた」と、懐かしそうに当時を振り返っていたという。

[米国日系2世来日]

星崎さんは平成5年(1993年)に米国カリフォルニアのオレンジ郡に住んでいる日系2世の山近清(W6NGO)さんを訪ねたことがある。山近さんは日本と盛んに交信し、戦前にも良く知られたハムであった。その山近さんは昭和11年(1936年)に早稲田大学に留学のために来日、翌12年に東京・内幸町のレインボーグリルで開かれた「JARL総会」に出席、山口さんと話しをされたと、星崎さんに語っている。

星崎隆一さん。戦後になって山口さんの講義を聞いた

JARL総会(全国大会)は、昭和11年に東京・山王ホテル、12年に大阪のガスビルで開かれているが、ともに出席者リストには山口さんの名前も山近さんの名前も見当たらない。さらに、昭和12年前後にレインボーグリルで総会が開かれた記録はなく、12年の9月に国防無線隊の編隊式が同グリルで開かれている。しかし、山近さんは「日米の二重国籍をもち、徴兵検査に引っかかる恐れがあるため、1年弱で帰国した」と星崎さんに話していることから、国防を組織する会議に出たとは考えにくい。

この当時はJARL関東支部がレインボーグリルを定期的な会合の場所に使っており、山近さんは、その会合に出席したことが考えられる。この会合にはハワイの野瀬堅(KH6IJ)さんも出席しており、日本への客船は一緒であった。山近さんは「その時、電気蝿取り器と称して無線機を持ちこみました」と、語っていたという。日本では石川源光(J2NF、JA1YF)さん、米田治雄(J2NG、JA1ANG)さん、森本喬(J2KJ、JA1LKJ)さん、村井洪(J2MI、JA1AC)さんらとひそかに交信した。

一方、野瀬さんは後にハワイ大学の教授となり、優秀な教授に授けられる「ティーチャー・オブ・ザ・イヤー」に選ばれている。また、アマチュア無線でも活発に活動し「ザ・デイトン・ハムベンション・アマチュア・オブ・ザ・イヤー」に指名されるなど、高く評価された。野瀬さんは日本のハムに知人が多く、なかでも野瀬さんのお父さんの出身地である福岡県の井波眞(JA6AV)さんと特に親しく、別の連載「九州のハム達。井波さんとその歴史」に詳しく触れられている。

野瀬堅さん。ハワイの大学教授。学者としてもハムとしても活躍した

[帝都防空演習参加の中村さん]

戦前の東海のハムリストを作成して気がついたことは、免許時の住所が名古屋市東区のハムが多いことである。21名中、実に3分の1に当たる7名である。東区は名古屋城の近くであり、江戸時代以前は武士の居住地、いわゆる武家屋敷が多い場所であった。その後も「お屋敷町」の風情が残っており、裕福な家庭が多かった。戦前、ハムになるためには普通の庶民では真空管も、トランスも買えなかった。

中村さんもその一人で、味噌醸造業を営んでいた。「受信局」の免許を経て「電信局」となり、名古屋で開局後約1年で東京へと移転、J1GEになった後に、昭和9年(1934年)にJ2HUになるとともに中村姓となったことはすでに触れた。レインボー会に加入したが、いつも若々しいために明治38年生まれと知ったときは、皆がびっくりしたという。

中村さんは昭和8年(1933年)8月9日より3日間、関東で実施された「愛国無線隊」の帝都防空演習に参加した。JARL関東支部から32名が加わったが、この時、中村さんは、わが国アマチュア無線の神様ともいうべき笠原功一(J1EZ)さんと同じ第3班となった。演習は猛暑の時であったが、中村さんは「風通しも良く、酒保で仕入れた乾パンや西瓜をかじりながら無事(楽)に勤務を終えた」と思い出を書いている。その中村さんも昭和63年(1988年)8月2日に亡くなられた。

[わが国アマチュア無線の元祖]

笠原さんについて少しだけ触れておくと、関西学院・高商部の学生であった大正14年(1925年)の春に、住友電線勤務の梶井謙一(J3CC、JA1FG)さんと大阪、神戸間で交信に成功した。わが国初のアマチュア無線局といわれている。アンカバー時代はJFMT、J3AAで交信、大正15年の4月に、梶井さん、草間貫吉(JXAX、J3CB、JA3HAM)さんと上京し、JARL発足を打ち合わせた。

その後、昭和2年(1927年)11月にJXIXの正式免許を取得、J3DDの後、東京に移り、J1EZさらにJ2GRとなり、JARLのために活躍した。戦後はJA1HAMとなった。戦前は「JARL NEWS」の発行を行なうなど、JARLの中心的存在であった。いわば、わが国のアマチュア無線界を作り上げた人であった。アンカバー時代を含め生涯でもったコールサインの数がもっとも多いハムだった。

笠原さんは戦後に現在のソニー(当時は東京通信工業)の役員となり、わが国のエレクトロニクスの発展に貢献された。また、どういうわけか東京・数寄屋橋の東芝ビルの一室に「テレビ普及会」の名称の事務所をもち「JARLの事務所として使用しても良い」と提案したこともあったという。