[戦争に振り回された花井さん]

再び、東海地区の戦前のハムの話に戻る。四日市市で陶磁器製造業を営んでいた花井さんは、中村さんより約半年後に免許を取得した。東海支部の委員時代の山口さんについて花井さんは「免許を持っているハム達と、アンカバーの勢力との狭間で苦労していたようだった」と、戦後になって星崎さんに語っている。その花井さんは断片的ではあるが、戦前のハムとしての経歴を「Rainbow News」に「60年の断片」として寄稿している。

花井さんは「Rainbow News」に戦後、戦前の思い出を寄稿した。この文章が絶筆となった

山近さんや野瀬さんが来日した頃、花井さんは召集令状を受け取り、飛行第3連隊に所属し、韓国、中国で飛行場設営にあたる。現地で北支派遣徳川飛行師団指令部に配属となり、無線の技術を生かす仕事に従事する。その後、南京、上海、漢口に移動した後、司令部が台湾に移動するのにともない、原隊復帰となり北京に帰り、その後、立川第5連隊へと帰還している。この間約2年という。

故郷に帰った花井さんは、中部軍司令部愛国無線隊として、各自が持ち寄った無線機で訓練を始めるが、同時に三重県警察の嘱託として、無線網の整備を命じられて県庁内で無線機の製作を開始した。しかし、昭和20年(1945年)の米軍による爆撃で津市は全滅し、すべてが無くなってしまう。

花井さんの思い出には一切年月が書かれていないため、前後関係がはっきりしないが、ある時、東海地区のハムが参加し、第3師団と情報伝達競争を行なった。防空訓練のためであるが「ハムグループ」が勝ち、感状をもらっている。この競争に参加したのは、山口さん、久米さん、廣間さん、西さん、松田さん、今井崎さんのほか、石川県の吉本正二(J2CC)さんと長野県の林太郎(J2CG)さんであった。ちなみにJ2CCのコールサインは当初、長野県の宮澤友良さんが取得したが、宮澤さんはその後、東京に移転J1GDを経て、この頃にはJ2IYとなっていた。

花井さんは県立津工業高校(現・県立津工業高校)の電気科、電気通信科の教師となり、通信訓練を担当したが「教材が少なく、勤労奉仕的な実習が多かった」と書いている。四日市東邦化学に勤労動員された生徒数名が夜間爆撃で犠牲になるという悲劇も起きている。また、夏休みに県立津中学で通信術の講習を行なったが、200名の生徒が休み返上で参加、合調語によるモールス符合暗記に熱心に取り組んだことも記している。星崎さんは「この訓練に私も参加しましたが、詳しいことは記憶していません」という。

[家屋全焼、すべてを失う]

花井さんの思い出は続く。四日市市は、昭和20年6月18日から8月8日までの間、9回米軍の空襲にあう。花井さんの家は全焼し、すべてを失う。家族6人は無事であったが、その後の空襲を避けるために、桑名、亀山などの山岳地帯を逃げ回る。幸い、夏場のために寒さに苦しめられなかったが、惨めな思いだった。津市の空襲では学校も全焼してしまい、花井さんは「もはや竹槍抗戦のみ」と覚悟する。

「竹槍抗戦」とは、米軍が日本国土に上陸してきた時には、立つことのできる国民は、適当な太さの竹を切り先を尖らせたり、剣先を取りつけて槍を作り、戦えと教えられたことを指す。もはや、戦うための武器が無かったのである。当時は本気で「竹槍」が武器として考えられ、国民の多くも覚悟した。戦後になって国民全体が「無鉄砲なことだった」とわかる。いずれにしても、花井さんの8年間は戦争に翻弄された日々であった。

8月5日終戦。終戦を伝える“玉音”放送を聞いた花井さんは、やがてやってくる「進駐軍次第の運命か。生命の不安を感じる」と心配。事実、米軍の爆撃機B29が「超低空で幾度も飛来する。威容なり」と、散々苦しめられた敵への恐怖を記している。しかし、やがて「自由開放時代到来。自営の陶器製造卸の再建が先」と、学校勤務をやめる。昭和24年であった。戦後の花井さんのアマチュア無線との関わりは後に触れたい。

松田さんの戦前のシャックJARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より

[松田さんの戦前]

東海地区の戦前のハムの中で「ラジオ少年」時代の姿から、その後の活躍がもっともつかめるのが、三重県度会郡(現在の伊勢市)で免許を取得した松田幸輔さんである。松田さんも戦後に免許をとり、レインボー会に入会し、思い出を「Rainbow News」に寄稿しており、平成11年(1999年)七月に94歳8カ月の長命で亡くなった。

松田さん(左)と梶井JARL元会長

また、ご子息の林七(JA2YY)さん以下、三人のご子息全員も戦後ハムとなり、長男の林七さんはお父さんの追想を書いている。松田さんは明治37年(1904年)10月10日生まれ、昭和5年11月19日にハムになっている。東洋紡績宮川工場の電気・原動部に勤めていた頃である。

松田さんの家は、商業と農業の兼業だった。長男ではあるが末っ子であった。電気に興味をもったのが小学校5年の頃で、懐中電灯を買ってもらった時からだった。その電池を使用して電磁石を作ることを計画したが、銅線が手に入らない。そこで屋根に登り瓦を固定するために使われている銅線を抜き取り、木綿糸を巻き絶縁線を作った。約4~5mの長さのコイル用絶縁線を作る作業は大変な労力であった。