JA2ZP 森一雄氏
No.8 戦前の東海のハム達(7)
[その他の戦前のハム達]
そのほかの戦前のハムについて触れると、久米さんと西さんは名古屋鉄道に勤務していた。西さんは、関東地域に移転し昭和13年(1939年)の末以降にJ2NNに変わっている。J2NNは、佐藤香さんが昭和11年(1936年)の11月に取得し、13年10月に局を廃止しており、空き番号となっていた。
大林、鷲見さんは松田さんと同様に、昭和5年(1930年)に電話で免許を取得し、昭和7年(1932年)にそれぞれ電信の免許を得ている。大林さんは安田分店勤務の後、大林商会に移っている。安田分店が隆盛を誇った「安田財閥」関係なのか、大林商会についても自ら立ち上げた会社なのかもわからない。鷲見さんはラジオ商に勤めており、同様に渡部さんも渡辺電気商会で仕事をしていた。
東海支部は昭和7年(1932年)9月25日に山口さん宅で支部会議を開催、8名が出席した。その席で渡部さんは「東京に転居することになった」と報告、仲間に寂しい思いをさせている。その年10月の「JARL NEWS」には「J1の方へ行きます。それで(通信機)を全部バラしました。JIの皆様どうぞ可愛がってください」と、寄稿している。結婚のためともいわれているが、その後、東京で免許を取得した気配はない。
郵便局勤務は2人おり、櫻井さんが宇治山田郵便局、鈴木さんが名古屋郵便局勤務だった。ちなみに宇治山田郵便局は、明治4年(1871年)に設けられたが、明治41年(1908年)に立派な局舎ができ、その局舎は重要文化財として、愛知県・犬山市の「明治村」に移築され、現地で実際に郵便業務の取扱を行っている。その櫻井さんは18歳の時に免許を取得している。
旧宇治山田郵便局。明治村で郵便局として使われている。
今井崎さんは合同電気勤務。合同電気は現在の三重交通の前身であり、明冶36年(1903年)に宮川電気として路面電車の創業を始め、何度も社名を変えて昭和5年(1930年)に合同電気に社名を変えていた。学校の教師は工業学校に勤めていた長谷川さんであり、唯一の学生が名古屋高等工業電気工学科の佐藤さんだった。
羽田野さんは羽田野歯科医院の医師であり、斎藤さんは辰馬海上火災保険の名古屋支社勤務であった。同保険会社は現在の興亜海上火災保険の前身であり、辰馬家の13代吉左衛門さんが大正8年(1919年)に設立したものである。羽田野さんは、その後東京に出て明昭電機に勤務した。渡辺さんは三菱電機に務めていた。
太平洋戦争を前に、昭和15年(1940年)頃からアマチュア無線の免許取得は厳しくなり、原則として昭和16年になると免許がなくなっている。その時期は、逓信局によって異なり、また、軍部への協力関係の大小によっても違った。そして、12月8日の開戦以後は原則として通信機は寄贈させられたり、買い上げられたり、または封印された。
太平洋戦争を前に、アマチュア無線免許は延伸が認められず失効させられた。東京の庄野さんが受けた失効通知
戦後になって亡くなられた戦前の東海地区のハムの方の死亡年月を「RAINBOW NEWS」から抜き出してみた。判明しているのはあくまでもレインボー会の会員に限られ、戦前、戦中に逝去された方は除外されているため、わかったのはわずかに以下の6名である。
鈴木一秋(昭和61年5/6)花井良太郎(同61年9/8)佐藤裕三(同62年11/13)中村藤作(同63年8/2)渡辺武(平成9年10/4)松田幸輔(同11年7/3)。
[終戦 アマチュア無線の再開]
そして、終戦。戦前のハムで戦後再び東海地区で免許を取得したのは、花井さん、松田さん、そして、佐藤さんの3人である。佐藤さんは後に関東に移る。戦後のアマチュア無線再開運動では戦前のハムが奮闘したが、日本を占領したGHQ(進駐軍)本部や、逓信院が折衝対象であり、地方のハム達にとっては直接的な活動はしたくともできなかった。
せいぜい、地域ごと、あるいは同士が集まって「ラジオクラブ」や「無線クラブ」を作り、また、受信だけのSWLカードをJARLから発行してもらい、無線関係の勉強会をする一方で、盛んに国外のアマチュア無線を聞いた。実はこの時期、アマチュア無線は国内にもあった。逓信院は認めていないが、米軍のハムはJAのプリフィクスを名乗って国内外と交信した。それを聞く日本人のハム志望者は「被占領国」の悲哀を味わう日を送っていた。
戦後の予備免許は、結局、昭和27年(1952年)になって行われた。東海地区では中川鉄夫(JA2AA)さん、仲川鈴夫(JA2AB)さん、村松健彦(JA2AC)さん、片山完(JA2AD)さんの4人がコールサインをもらった。仲川さんは戦前J2XFのコールをもち、昭和15年(1940年)6月7日に免許を取得している。
戦後、東海地区で第一回の免許を取得したハムの一人である村松さん
仲川さんは免許当時静岡県庵原郡神戸町在住である。静岡県は戦前は関東管内に入っていたが、戦後に東海管内に変更された。このため、戦前の東海のハムリストには入っていない。村松さんは戦後にハムになったが、その当時は浜松市であり、現在は名古屋市に居を移している。いずれにしても、戦後の東海地区で最初に免許を取得した4人の内の2人が静岡県人であったことを強調しておきたい。