朝熊岳には朝日新聞社も中継局を設置していた。知多半島、渥美半島、そしてその周辺の島々との通信網確保が目的であったが、電話回線によるFAX網の整備、新中継局の設置により朝熊中継局を廃止することになった。この時、朝日新聞社からJARL東海支部に「局舎を利用しないか」と打診があった。東海支部は原昌三・JARL会長と相談の結果、50MHzのビーコン局の設置を決めた。

朝熊岳のJARLビーコン局。昭和58年には14MHz局が開局した

現在でもそうであるが、各新聞社はアマチュア無線局の情報収集能力を高く評価しており、JARLとの結びつきは強かった。このため、朝日新聞社のJARLに対する好意であった。もちろん、その後の局舎用土地の地代、ビーコン局設備の電気料金は東海支部の負担となるが、停電時の非常用電源設備はそのまま使用できるようになった。昭和47年(1972年)7月15日、ビーコン局(JA2IGY)は開局した。

その後のビーコン局の動きを記すと、昭和52年(1975年)7月に52.5MHz、変調方式A1、出力110Wを加え、さらに、昭和58年5月に14MHz、100Wを追加し、平成元年になると、18MHz、24MHzも加わった。その後、1200MHz、2400MHzのUHF帯も追加され、日本で初のワールドワイドビーコンとなった。ワールドワイドビーコンは、世界6カ国に置かれており、毎時決まった時間に交互に電波を発射しているもので、世界中で利用される貴重な存在となっている。

[東海地方事務局長に就任]

事務局入りした森さんは、53年(1978年)に事務長となる.この頃、事務局の職員は森さん以下4名となっていた。養成課程諌習会の開催が増えるのにともない、事務局も多忙になったからであり、活動も活発になっていた。朝霧高原で「全日本ハムコンベンション」が開かれた昭和51年、愛知県支部は「愛知県支部アワード」を発行する。松本孜(JA2WRL)さんが担当となり、愛知県内の市、郡すべてとの交信に対して与えられる賞である。

森さんが事務長に就任した翌昭和54年に西日本地区の各エリア事務局職員の年1回の慰安旅行がスタートした。従来はそれぞれの事務局が単独で行っていた旅行を共同で実施しようとの考えがまとまったためで、その後毎年実施されている。森さんは「この合同旅行には東日本の事務局職員も参加するようになり、JARL本部を除いた全国の催しとなった」という。

この年になると2つの記念局が運用された。7月27目から8月31日まで、愛知県青少年公園内に「国際児童年記念局」8J2IYCが、また、10月5日から15日の間、ITU〈国際電気通信連合)加盟100周年の「特別記念局」8J2ITUが事務局内にそれぞれ置かれ、運用された。

翌昭和55年(1980年)には事務局に100W出力の固定局JA2RLが誕生した。JA2RLのコールサインは「ラジオ・リーグ」の略称でもあり、JARL東海地方本部にとってはふさわしいコールサインだった。このコールサインは元東海支部長の村上哉夫(JA2CK)さんが所有していたもので、昭和40年(1965年)に支部に提供されていた。

この年は、このJA2RL開局15周年に当たるため、それを記念して東海管内4県を移動運用するとともにアワードを発行、その後、新たな固定局を事務局に設けたものであった。このアワード「JA2RL開局15周年記念賞」は、当時の東海地方本部長であった加藤昭司(JA2EQ)さんの名前で発行された。昭和57年(1982年)事務局は5名体制となる。

[増えるイベント 地方博ブーム]

昭和60年から平成3年頃までの間、バブル経済に経済、産業は潤った。一見、豊かになったかの社会を反映して、各自治体が積極的に博覧会の開催に乗り出した。全国各地で競うように開かれた博覧会は「地方博」ブームといわれた。東海地区でも同様に博覧会が続いた。主なものだけをあげてみると、昭和63年(1988年)8月には「ぎふ中部未来博」が、翌平成元年3月には静岡市で「SUNPU博」が開催された。

さらに同じ年の7月に「名古屋世界デザイン博」が開催された。この後、平成6年7月に三重県では「世界祝祭博覧会」が開かれている。この「地方博」ブームの時期は、アマチュア無線の興隆期と重なっており、JARL東海地方本部も記念局を設けた。「SUNPU博」には、地方本部局のJA2RL/2が静岡県支部で運用された。

「名古屋世界デザイン博」でのJARL記念局8J2DEP

一方の「世界デザイン博」には、愛知県支部が8J2DEPを運用した。博覧会は7月15日から9月1日までと、11月20日までの期間開催されるという変則的なものであり、しかも、11月の7日間の会場は名古屋市の名城、白鳥(熱田区)名古屋港の3会場で開催された。

7月15日のオープンの日、記念局の前に座った原昌三・JARL会長が第一声を放った。相手は、ちょうどこの日にオープニングを迎えた福岡市の「アジア・太平洋博覧会」会場内の記念局8J6APXでマイクを握っていた井波眞(JA6AV)JARL副会長であった。森さんはJARL会長、副会長の交わす挨拶を感動の面持ちで聞いていた。