[目覚ましい東海のアマチュア局の増加]

わが国のアマチュア無線局は、昭和59年頃から一段と増加テンポを速めている。それまでのJARLの推進活動の結果でもあり、また、人口の多い「団塊第2世」が中学生になり、アマチュア無線を趣味にし始めたこともその理由である。昭和55年(1980年)に48万6千人であったアマチュア無線局は9年後の平成1年(1989年)には102万7千人へと倍以上の増加となり、平成5年(1993年)には2.7倍の132万6千人となった。

なかでも、東海地方の増加率は高く昭和55年の6万6800人が、平成5年には20万2600人へと2.9倍の増加だった。この同じ期間に、関東地方の増加率は2.4倍、関西地方は2.3倍であり、東海の伸び率が際立って高かった。このため、東海の局数は平成4年に関西の局数を上回り、関東に次ぐ局数となっている。

このように増え続けるアマチュア局、JARL東海支部会員のために、平成元年に「東海四県支部ハムの集い」が三重県の大王町にある登茂山キャンプ場で開かれた。会員が家族で集まり、キャンプを楽しむという目的であるが、もちろんハンディ機を手に交信する人や、アマチュア無線談義を夜更けまで続ける人などこの企画は好評であった。翌年の「ハムの集い」は、愛知県の茶臼山で開催され、その後も平成8年まで毎年実施された。

アマチュア無線ブームが始まりつつあった昭和56年には名古屋でもJAIAフェアが開かれた。右端が森さん

[26回、27回JARL通常総会]

この間、東海地方でのJARLの通常総会は、昭和59年(1984年)の静岡市民文化会館、平成4(1992)年の伊勢市の三重県営競技場・体育館の2回開催された。静岡市民文化会館での第26回、愛称「駿府総会」は見事な演出で記憶に新しい。司会の松野輝洋(JH2NBJ)さんの総会歓迎の挨拶の後、地元短大の女子学生がマーチングバンドに乗ってアトラクションを見せ、会場を盛り上げた。

舞台は一転して照明が消え、電子音が奏でられる中で、大スクリーンに映された富士山の色が刻々と変化。その富士山をバックにアマチュア無線衛星の模型が登場、左から右に飛び去った。スピーカーからはモールス信号音が出席者の気持ちを高ぶらすかのように聞こえだした。会場は自然に大きな拍手に包まれ、総会が始まった。

平成4年の第4回の「パール総会」は、伊勢神宮の所在地もあって2000人が出席した。取りたてて複雑な議題がなかったために議事は淡々と進み、午後5時半に終了した。この2つの総会に森さんは事務長の立場から陰で支える役割を果たした。

この前後の東海地方の大きな動きを紹介すると、平成3年(1991年)に、朝霧高原で「91年ARDF全国大会」が開かれた。ARDF(アマチュア電波測向競技)は、現在では国際大会まである競技であり、わが国では早くから行われていた「フォックスハンティング」を想像していただければ良い。ただし、体力不足がもっとも大きなハンデとなって、日本は中国などの海外に歯が立たない状態である。このため、JARL北海道地方本部長の原恒夫(JA8ATG)さんがJARLの「ARDF委員会委員長」として、国際大会で勝てる選手養成に力を入れている。

平成3年のこの年には、財団法人アマチュア無線振興協会(JARD)が設立され、東海地方にも東海支所が設けられ、森さんは支所長に就任する。JARDは第4級、第3級のアマチュア無線技士の「養成課程講習会」を実施したり、アマチュア無線機器メーカーの製品の性能・機能を電波法に基き審査する「技術基準適合証明」を行う機関として誕生したものである。

森さんの東海地方事務局勤務15年の表彰が原会長から行われた。平成3年9月東京で

[惜しまれながらの定年]

東海地方事務局が廃止された現在は、森さんはJARD養成課程主任として、自宅を事務所としてその仕事を引き継いでいる。平成8年(1996年)、森さんは65歳となり定年を迎える。ちょうど、東海地方事務局開設30周年に当たる年であった。10月13日、20年勤続した森さんの退職送別会と事務局開設30周年を兼ねた催しが名古屋市内の「ルブラ王山」で行われた。

それに先立つ7月にJARL東海地方事務局開設30周年を記念した「三十年の歩み」が発刊された。JARL原会長、当時の理事である杉山正(JH2XPV)さん、東海地方本部長の百武邦明(JA2CBC)さん、東海地方監査長の渡邊英雄(JA2ADH)さんらが祝辞を寄せているが、いずれも長年東海地方のアマチュア無線の発展に貢献した森さんをたたえている。

この中で森さんは、アマチュア無線の隆盛ぶりを語り「30年前には考えも及ばなかったことでした。」と書き、同時に「最近はニューメディアという言葉がよく聞かれますが、当然アマチュア無線の世界もこれを見逃せない」と、今日の技術の変化を示唆したことにも触れている。

定年退職した森さんはしばらく嘱託として事務局に勤務したが、翌年の10月31日に勤務を終えている。そして、平成11年(1999年)には事務局そのものが閉鎖される。経費節減のため、やむを得ぬJARLの決断であった。閉局式は原会長を迎え、当然、森さんも招待されて、悲しみの中にも行われた。

東海事務局の閉局式には原会長も出席。森さんも招かれた。前列右から4人目