わが国の無線電信の歴史は、明治29年(1896年)に当時の逓信省が研究を始めたことから始まったといわれている。それ以前に個人的に手がけた人がいたかどうかの記録はない。しかし、この時代、すでに多くの民間人が留学や、鉱工業や商売での成功を狙って、欧米に出かけている。目ざとく、吸収力のおう盛な日本人だけにあるいは、という気がしないでもない。いずれにしても、その後の無線通信の開発には海軍が熱心に取り組む。海の上での伝達方法には手旗信号があったが、視界外となると無線に頼らざるを得ないことから当然であった。

積極的に開発を進めた海軍は明治37年(1904年)には長崎と台湾の間の通信に成功している。海軍で実用化された通信機は、日露戦争の日本海海戦で活躍することになる。ただし、その頃は通信機を含めて戦艦ぐるみ英国に生産を委託しており、国産の通信機が採用され始つつあった時代である。その後は、船舶の安全航海を目的にした海岸局が沿岸部に増えていった。

一方、アマチュアはどうであったのか。米国では1912年に無線法が制定され、アマチュア無線の実験が正式に認められ、さらに1914年にはARRL(アメリカン・ラジオ・リレー・リーグ=アマチュア無線連盟)が設立されている。日本では大正4年に無線電信法が施行され、大正10年代には民間の研究所が私設実験局の免許を取得したり、新聞社の無線電話の公開実験が相次いで行なわれた。そして、わが国初のラジオ放送局「社団法人東京放送局」の開局が大正14年であった。

大正14年のこの年は、わが国のアマチュア無線の歴史の上で画期的なできごとがあった。西宮と大阪間で初の個人による交信が行なわれた。昭和30年代の半ばに、JARLからの依頼を受けた当時の朝日新聞記者の小林幸雄さんは、電波振興会が発行していた「電波時報」に戦前、戦後のアマチュア無線の歴史を連載した。34年11月号から、29回もの大作である。スタート当初は東京本社社会部の一記者であった小林さんは、九州の西部本社社会部次長になり、次いで福岡総局次長を経て、連載を終了する頃には東京本社の通信部次長にまでなっていた。その連載は、今はサイレントキー(故人)となられている方にも会われて取材し、また、JARLが所有する豊富な資料を使ってまとめられているため、連載そのものが今では貴重な歴史資料となりつつある。

その中に書かれている阪神問の個人初の通信は、劇的なドラマを見るような描写でつづられている。大阪に住み、住友電線勤務の梶井謙一さんは、関西学院高商部の学生にラジオ少年がいると知り、西宮に笠原功一さんを訪ねる。ある時、笠原さんは「聞いているだけではつまりません。電波を出そうではありませんか」と提案。2人は送信機作りに取りかかる。米国ARRLの機関紙QSTで回路も部品もわかっていたし、交信のし方も知っていた。梶井さんはJAZZ、笠原さんはJFMTとコールサインを決めた。送信機作りは部品を探すのにも苦労したが、ようやく完成する。

笠原さんが自作した送信機。歴史的な単管送信機といわれている。JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より

梶井、笠原さんは毎晩、時間を決めておいてモールス信号のキーを叩く。その結果は梶井さんが会社に出社してから笠原さんの自宅に電話で知らせる。その時には笠原さんは学校に行っており、お母さんが伝言役となり帰宅した笠原さんに知らせる。ほぼ1日後に結果がわかる仕組みであった。それがいつであったか2人とも「大正14年の秋から年末の頃」としかおぼえておらず、定かな記憶がない。この頃、電話は一般家庭にはほとんど普及していなかった。

したがって、梶井さんは会社の電話を使ったらしい。一方、笠原さんの家庭は裕福であった。大正14年(1925年)は東京のJOAKが放送を開始した年であり、大阪のJOBKの本放送開始は翌15年である。梶井―笠原さんのこの送信はラジオの本放送より早く、また、日本の空を個人発信の電波が飛んだ最初といわれている。その頃には草間貫吉さん、井深大さん、谷川譲さんなど関西の学生や若い会社員が同じように電波を発射し、お互いに交信するようになってもいた。

大正14年4月に埼玉県岩槻にあった逓信省の送受信所は、ARRLの会員u6RWさんと交信、その後QSLカードを手に入れる。電波実験社発行「アマチュア無線外史」より