島さんは今、8月に開催を計画している「アマチュア無線再開50周年記念行事」の準備に追われている。同展示会は8月9~10日の両日、大阪・天王寺区の大阪国際交流センターで開かれることになっている。「単なるアマチュア無線の行事ではなく、一般の青少年にも楽しめる催しとしたい。」というのが島さんの考えである。わが国のアマチュア無線は昭和2年に「私設無線電信電話実験局」としてスタートしたが、太平洋戦争開戦とともに禁止され、戦後も昭和27年まで再開を許されなかった。今年はその再開から50年。その期間を振り返ると島さんの胸中にはさまざまな思いが湧き出してくる。

島さんが初めてラジオの製作に取り組んだのは、昭和20年(1945年)の夏、15歳の時だった。戦時下に滋賀県の大津工業学校に進学した島さんは、この年の3月に学徒動員で新日本電気大津工場(現・NEC関西)で働くことになった。太平洋戦争も3年以上が経過し、労働力不足が深刻となり、青少年も軍需生産に駆り出されるようになった。また、前線では日本軍は敗退を続け、南太平洋の島々は米軍によって占領され、これらの米軍基地から日本本土爆撃の飛行機が飛来するようになった。

大津工業時代の島さん。無線部のメンバーとして活躍し、ときに研究発表も行った。写真前列右から4人目。

3月13日から14日にかけての大阪大空襲を島さんは記憶している。「昼間ではあったが大阪の方から真っ黒な煙が流れてきて、空は暗かった。新日本電気大津工場への学徒動員は、その翌日から始まった。」と鮮明な記憶である。工場では潜水艦などを探知する水中聴音器に使用するメーター工場に配属された。時折、大阪空襲を終えて帰還するB29の編隊が大津付近を通過する下で皆、真剣に働いた。7月には隣の東洋レーヨン(現TORAY)の兵器部製作部工場が爆撃を受け、緊張したこともあった。当時、新日本電気の大津工場では真空管の生産も行なっていたため、島さんは「非常に興味を持ったが、家庭用には使用できない球と聞かされた。」ことを記憶している。終戦後、自作のラジオで国内外の中波、短波放送を聞くことに楽しみを見つけた島さんは受信レポートを送り、QSLカードの収集にのめり込んだ。

そのうちに「ハローCQ CQ」という呼びかけのような音声を聞き、これが話に聞いていたアマチュアか、と興奮する。当時のアマチュア無線は日本人には認められておらず、GHQ(進駐軍)の関係者が「軍用補助局」の名目の元に交信していた。戦後のアマチュア無線の再開は容易に進展せず、戦前のハム達もSWL(短波受信)で我慢していた。そのような状況の中で、JARL(日本アマチュア無線連盟)は、日本政府やGHQに対して執拗に再開を要請、21年の8月にはJARL再結成全国大会を関催し、組織だけは先行して立ち上げられていた。9月にはJARLの機関紙として「CQ ham radio」が創刊され、島さんも貪り読んだ。

電波が出せないならば、SWLの数を増やそうとJARLは受信の楽しさをPRするとともに、連盟員(正員、準員)や登録クラブ員にSWLナンバーを発行し始めた。「戦前のハムは正員であり、バッチの色は黒。我々戦後派は準員で、バッチは紺色。受信機は1V2(高周波1段・低周波増幅2段のオートダイン受信機)を自作して聞いていた。島さんのSWLナンバーはJAPAN3-66。滋賀県では島さん一人だけであった。

SWLになった島さんは、次第に戦前のハムの方たちと交流するようになった。アマチュア無線を聞くだけで一度も電波を出したことのない島さんにとって、自ら電波を出すことのできた戦前のハムのすべてが興味の対象であった。関西はアマチュア無線発祥の地ともいわれ、技術、一般知識に優れたたくさんのハムがいた。いずれも親切丁寧に教えてくれる人達だった。「塚村泰夫(戦前J3CW)さんにお会いするために神戸によく通いました。大阪では、湯浅楠敬(同・J3FJ)さん、桜井一郎(同・J3FZ)さん、武井俊男(同・J3ES)さん、岡谷重雄(同・J3FI)さんなどの皆さんから教えを受けました。昨日のような気もしますが、もう半世紀以上も前のことになりましたか。」と、考え深げである。

昭和9年に自作された湯浅楠敬さんの送信機。JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より