笠原さん、草間さんを始め、この頃のラジオマニアの多くは、当時、新聞社が盛んに行なっていた「無線電話」の公開実験を自作の鉱石ラジオで聞くことに挑戦し、通信に興味をもった。当時、“紙媒体”を発行していた新聞社は電波で情報を送る“通信媒体”に注目した。大正12年の“関東大震災”は悲惨な大災害となったが、この時、政府も国民も情報伝達手段のない状態を反省、ラジオ放送の必要性を痛感させられていた。欧米では大正10年から11年にかけて放送がスタートしており、各新聞社が新事業として放送事業に乗り出そうとしたのは当然であった。特に、東京、大阪の朝日新聞社、毎日新聞社が熱心に実験し、公開した。

このような動きに対して、逓信省は社団法人の形で放送事業の開始を決め、東京、大阪、名古屋の3地区に放送局の設置を許可した。大阪放送局は大正14年6月に三越の屋上から仮放送を開始し、本放送は15年12月であり、この時の送信は天王寺区上本町9丁目から行なわれた。島さんの手元に当時の貴重な資料がある。京都市左京区に居住していた駿河徳太郎さんが大阪放送局を受信していた時の許可書、聴取料金の領収書、放送局からの聴取章規定、注意事項などの一連の文書である。それを眺めていると、ラジオ放送を聞くだけのことが国家の管理下に置かれるほどの大事であったことがわかる。

ラジオ受信には大阪逓信局長発行の「聴取無線電話私設許可書」が必要であり、許可書の一部を紹介すると「施設者は無線電信法及び放送用施設無線電話規則並びに之に基づく命令を遵守すべし」(現代文に変換して転記)といかめしい。駿河さんの許可書は許可日のところの「昭和」が手書きで「大正」に直されている。推測すると、駿河さんは大正14年8月4日に受信許可を出願したが、昭和11年に住所を替えたかして、改めて許可をもらったらしい。許可番号は「大阪第30692号の2」となっており、右隅に「装変11.5.1」のスタンプが押されていることから推測できる。

駿河さんの「聴取無線電話私設許可書」。現在のNHKを聞くために、いかめしい許可が必要であった。

島さんも「逓信局の許可を受くべき事項の中の3機械装置場所の変更に該当するものと思う」と、分析している。聴取料金は月額1円。「聴取料は当分1円」という表現がどういう意味なのか理解しにくい。いずれにしても、比較対象のデータがないが高価であったことは間違いない。許可の注意事項も子細に渡っており「本施設を廃止したる時は速やかに空中線、受信機等の装置全部を撤去し、5日以内に本免許書添え廃止届を当局に差し出さるべきこと」などの条件が付いていた。

放送局からの注意事項も同様であり、その1項に「許可を受けざる聴取無線電話を発見したるとき」は逓信局に届けるとともに相手(聴取)放送局にも届けて欲しいとある。聴取料は仮放送中も徴収しており、1期3カ月が原則であった。なお、東京、大阪、名古屋の各放送局は15年8月に合併し、社団法人日本放送協会として一本化された。ちなみに、駿河徳太郎さんは外国との間を行き来する商船の船長であり、そのご子息は後に商船の通信士となり、戦後JA3XXとなった駿河順一さんである。島さんは船舶無線のアンテナの実験をするに当たって、順一さんの乗船している商船のお世話になったこともあった。長々と放送について触れてきたが、アマチュア無線家となった多くが放送受信で育てられ、また、その後も受信を専門とする免許制度が続いたために、当時のラジオ放送の状況を紹介した。

話題を再び戦前の免許以前に戻す。しばらくして、笠原さんが今から思うと驚くべき提案をする。「日本を3地区に分け、コールサインを決めよう。関東はj1、東海はj2、関西はj3でどうでしょう」と発言し、関西のアンカバー達は現在で言うところのプリフィックスをj3とする。このエリア分けは現在とまったく同じであり、笠原少年の感性が驚くほどに高かったといえる。大正15年の2月、笠原さんは北海道のJOC落石無線局からの呼出を受け交信。関西以外の場所との交信が可能なことを知る。JARLの現会長である原昌三(JA1AN)さんは、免許制度のなかったこの時代をアマチュア無線の「神代の時代」と名付けている。この言葉は、歴史的なしっかりとした記録のないことを意味してもいる。

昭和50年、東京・椿山荘で開かれた「アマチュア無線の日」式典出席者の一部による寄せ書き。戦後、免許申請しなかった井深さんは戦前のJ3BBを自ら「アンカバ」と紹介している。

笠原さんはJFMTのコールサインを勝手につけていたが、この提案後にはj3AAに代え、草間さんはj3KK、後にソニーを創業した井深大さんもj3BBにそれぞれ代えた。どういうわけかこの時は小文字のjを使っている。余談になるが、笠原さんは日本のハムの中でもっとも多くのコールサインを持った一人だったといえる。JFMT、j3AAはアンカバー時代、その後、正式に得たものが戦前はJXIX、J3DD、J1EZ、J2GR、そして、戦後にJA1HAMとなったからである。

大阪毎日新聞社による公開放送実験 電波実験社発行「日本アマチュア無線外史」より