その「神代の時代」のドラマはまだ続く。大正15年(1926年)3月5日の夜、谷川さんは草間さんと交信した後、J1TSから呼びかけられる。J1TSはインピャリァルユニバーシティの学生であり、住まいが東京であるという。とにかく驚いたのは谷川さんである。関西以外に個人で電波を出している人はいないと思っていたからである。その足で笠原さんに報告する。J1TSは東大生の仙波猛さんだった。

一方の仙波さんも驚いた。驚くと同時に交信相手を疑ったのである。当時は、電波を出すことは禁じられており、中波電波を出して捕まった仲間がいた。このため、仙波さんは逓信省の職員が囮(おとり)電波を出したのではないかと半信半疑であった。その後、笠原さんも仙波さんとの交信に成功する。東京にも仙波さんの他に磯英治さん、矢木太郎さんなど同じような仲間がいた。

この頃になると、関西、関東の仲間は海外とも積極的に交信するようになる。海外のアマチュア無線界のことを知り始めると団体を作ろうとの動きが高まり、関西側が関東側に提案する。JARL(日本アマチュア無線連盟)の発足までは名称を巡って様々な意見が出たが、とにかく総裁を草間さんに決めて、その年の6月12日に一斉に世界に向けて、JARLの発足を英文で打ち出した。

JARL誕生のニュースは海外のハム達によってさらに世界にバラまかれ、米国の雑誌QSTはその年の8月号にそのニュースを掲載している。記事は「JAPAN」とタイトルを付け「発足宣言」の全文とともに、米国のハムが受信し、QST誌に連絡のあった日本側の9名のコールサインを紹介している。

JARL発足を告げた米国の雑誌1926年QST8月号とその記事。

しかし、草間さんがj1KKと記されている他、j1SS、j1TM、j8AAのコールサインは、発足したJARLの盟員には見当たらない。島さんは最初、日本側発信者の打電ミスか米国側受信者の聞き取りミスであり、「j1SSはj1SHの島茂雄さん、j8AAはj3AAの笠原さん、そして、j1TMはj1TNの中桐光彦さんが正しいのでは」と推測した。その後、島さんが丹念に当時の関連資料を集めた結果、2名は正しいことが判明した。草間さんは関西をj3と決めた後もしばらくj1KKを名乗っており、笠原さん達から「年長者がそれでは困ります」と注意されてJ3KKに代えたといういきさつがわかった。

また、当時発行されていた「無線の研究」には、東京の仙波猛(JARL設立後j1TS)さんや神戸の山口慶吉(同j3QQ)さんがj1KKを受信した報告があり、さらにJ8は朝鮮逓信局であることも島さんはつき止めた。戦後、免許が再開されて2、3年後に、島さんはニュージーランドの局から「お前はかってのj3AAか」と聞かれたという。コールサインが3AAだからだった。島さんは「もちろん否定したが、昭和30年ごろには海外にも“神代の時代”の超OM(オールド・マン)がおられた」と感動したという。

島さんは、JARL結成当時の規約のコピーを所有しているが、年月が記載されていないため、いつのものか確証がない。笠原さんは「4月に草間、梶井さんの3人で上京、関東の仙波猛さん、磯英治さん、宮崎清俊さんと協議し打合せを始めた」と、戦後の昭和23年に「CQ ham radio」に思い出を寄せている。手書きのB5判サイズ1枚の規約は、80年近く前の手書きの文書をコピーしたものであるため、上部に「厳秘」と書かれた文字は消えかけており、本文もかすれているが十分に読むことができる。組織名は「日本素人無線連盟」であり、外国語名は「JAPANA AMATORA RADIO LIGO」のエスペラント語である。JARL設立は関西が指導権を取り、しばらくは関西が実質的な事務局の役割を果たしていた。

手書きされた「日本素人無線聯盟規約」の原文コピー。

海外向けのエスペラント語名は東京の仙波さんの提案だった。先端的な無線マニア達は結局は当時の先端的なエスペラント語を受け入れた。JARL規約には発足の年月はなく、また、QSTの記事にも宣言文の受信年月はない。このため、現在でも世界に向けての宣言文打電の正式日付は6月12日説と28日説とがあり、明快ではない。笠原さんは6月12日、島茂雄さんは28日らしいというものの、二人ともに「はっきりと記憶していない」という。しかし、笠原さんは戦後もたびたび6月12日とした文書を発表している。

この頃、もちろん島伊三治さんはまだ生まれていない。大正15年は大正天皇の崩御により年末に昭和と元号が改められた年だった。海外では英国が世界初のテレビ放送公開実験に成功、また、ロンドン-ニューヨーク間の写真電送も行なわれた。日本では浜松高等工業学校の高柳健次郎教授がカタカナの「イ」の字をブラウン管上に送信する実験に成功、さらに、世界的な発明である「八木アンテナ」が八木秀次さん、宇田新太郎さんによって開発されている。

ところで、逓信省は米国のQST誌の記事によってJARL発足を知り、また、日本のマニア達が国内の他、海外との間でアンカバー(無許可)の交信を行なっていることをつかんだ。逓信省は取締を強化する一方で、海外先進国に習いアマチュア無線に免許を与える時期にきていると判断。その結果、昭和2年(1927年)3月に短波実験局が誕生し、有坂磐雄(JLYB)さん、楠本哲秀(JLZB)さんに免許が下りる。次いで、草間貫吉(JXAX)さんが9月に、その後、11月頃までに8名がJXBX~JXHXまでのコールサインを取得する。さらに、やや遅れてJXIXの免許が下りる。IXは笠原さんであった。

笠原さんは商学部の学生であり、商学部の学生がどうして無線通信の実験をやる必要があるのか、実験のための資金はあるのか、と厳しい審査があり、他の人よりも1~2カ月遅れたのが実情だった。昭和元年が6日しかないことを考えると、逓信省の免許制度実施の決断は早かったといえる。問題は、わが国のアマチュア無線の第1号は誰だったかである。