戦前、アマチュア無線局を開設した人達は、どのような人達であり、どんな活躍をしたかを知るために貴重なデータとなるのが、和歌山市に住んでおられた宮井宗一郎(J3DE)さんが発行し続けていた「宮井ブック」と呼ばれるコールサインブックである。戦前のハム達はその技量を買われて多くが軍の通信関係で仕事をした。戦地に派遣されたハムの多くは戦死された。また、生き延びられたハムでも戦後のアマチュア無線再開とともに再び免許を取得された方は少なかった。戦争がアマチュア無線の歴史の伝言者を失わさせた。このため、戦後に島さんのように戦前のハム達と交流した人は多くはない。このような背景があるため「宮井ブック」は貴重である。

宮井さんは大阪毎日新聞の電信課に勤務し、和歌山市内の実家は勤め先の新聞を配達する販売店を営んでいた。その宮井さんの「宮井ブック」は、昭和6年からアマチュア無線が禁止された昭和16年の前年まで、毎年発行された。年2回発行した年がある半面、昭和12年から昭和14年までは発行されなかったもようであり、昭和15年12月の最終号はNO10となっている。正式名称は「日本短波長無線電信電話・実験局名簿」であり、今、全巻揃えて所有している人はほとんどいない。

この“古文書”的存在でもある「宮井ブック」の記録は、宮井さんの几帳面さにより正確である。宮井さんは巻頭や巻末にその時々の思いを書いており、どのような経緯でこの面倒な発行を始めたかがわかる。宮井さんは、ご自身の免許取得1周年の記念として発行を決断した。日々の官報からまず人名などをピックアップし、それぞれのデータを記入した紙を直接本人に送付して、記入、訂正を依頼、編集の後、全国の所轄逓信局無線課に送り、校正を依頼するとともに、掲載されている本人には、それぞれの掲載部分を細長く切って送付して、再校正をしてもらっている。大変な労力であり、丁寧さだったといえる。

第1号は謄写版刷りであったが、その後、勤め先の大阪毎日新聞社が活版印刷を支援している。この頃「JARLニウス」の印刷を全面的に東京朝日新聞社が支援していたため、あるいは毎日新聞社としてはその対抗策としてのねらいもあったのではないかとも考えられる。

「宮井ブック」の昭和9年1月発行号とそのJ3局リストの1ページ。

その「宮井ブック」の昭和7年10月版では、関西のハムは47名がリストアップされている。最年少は鈴木芳男(J3EB)さんの18歳、最高齢は古川貞一(J3EA)さんの39歳であり、21~23歳が圧倒的に多い。学生は19名である。どのような職業や立場の人かというと、もちろん、共通しているのは無線マニアではあるが、当時、高価な真空管やその他の部品を手に入れることのできる生活環境にあった人達でもあった。島さんの記憶やその他の資料などを参考にしてみてみると、梶井さんは“檸檬”の著者として知られている作家である梶井基次郎さんの弟さんであり、住友電線の社員であり、東京に移ったため、7年の10月14日に局を廃止している。当時の東京の自宅住所は判明したが、7年以降のコールブックを見ても名前が見当たらない。草間さんは日本電力の社員であったが、昭和7年には日本放送協会JOBKに移り、さらに朝日放送の技術局長になられた。

笠原さんは先に触れた通り学生。しかし、笠原さんは西宮の名次山の頂上に大鉄塔を建てていたというから、裕福な家であったものと思われる。学生はほとんどが裕福な家庭の子供達であり、電気工学部や医学部在籍がやや多い。塚村泰夫さんは大阪歯科医学専門学校の学生から歯科医となり、林龍雄さんは東北帝大の電気工学部を卒業して大阪帝大理学部に勤務したが、昭和8年の10月11日に局を廃止している。戦後は関西テレビの役員となった。菊池源一郎さんは阪神電鉄課勤務から電機関連の会社に移っている。山本信一さんは大阪市電気局電燈部勤務から転職し、大阪朝日新聞の通信部勤務となる。小沢匡四郎さんは陸軍大尉、その後、あちこち転勤して、異なるコールサインを取得している。

草間(JXAX)さんの自作送信機。水晶で制御していた。---JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より