裕福な家庭の典型の一人は桜井さんだった。貿易商を営み、戦前では珍しい自家用車を所有していた。桜井さんは自宅に自動送信システムを設備し、車を運転しながら「感度実験」を盛んに行なった。当時、アマチュア無線に許される1日の時間割が決まっており、午前2時から4時までが通信時間、4時~6時が通信禁止時間、その後も2時間おきに交互に通信時間と通信禁止時間が設定されていた。このため、桜井さんは電信のキーが自動的に作動する「自動電鍵」を作製するとともに、タイマーをセットして、時間になると送信を開始するようにした。

島さんは戦後になって桜井さんから「アイマック社製の輸入真空管35Tを使い、アンテナはJ型を作り、周波数は56MHz。車に受信機を載せて移動して実験した結果、滋賀県の長浜まで電波が届いた」と聞いている。大阪、長浜間は正確な計測ではないものの約100Kmはありそうで、交信ではなく一方通行ながら戦前の新記録の可能性が強い。昭和10年に東京-逗子間を56MHzで交信したのは森村喬(当時J2KJ)さんと渡辺泰一(当時J2JK)さんであり、その距離は48Kmであった。その時の模様は別の連載である森村さんの「あるアマチュアOTの人生」で触れている。

湯浅さんは大地主であった。当時の免許条件は出力(空中線電力)10Wであったが、当時、活躍したハムのほとんどがそれを上回った通信機を持っていた。戦前J5CCとして海外でも知られた鹿児島市の堀口文雄(J5CC)さんは実に1500Wであり、東京の大河内正陽(J2JJ)さんは800W、村井洪(J2MI)さんは500Wであった。小林幸雄さんの「日本アマチュア無線史」の連載15回目には、この他、蓑妻二三雄(J2KG)さん、森村喬(J2KJ)さん、三田義治(J2IS)さん、石川源光(J2NF)さんの出力リストが掲載されている。もっとも小さな出力でも300Wであった。すでに“時効”になっていることでもあり、公表したのであろう。島さんによると「戦前、戦後もしばらくは出力の測定は難しく、電力といえば終段入力であった。したがって、実際の出力電力はこの半分程度と見て良いと思う」という。

J3CG(菊池源一郎)さん、CS(山本信一)さん、CT(中村季雄)さん、DF(津賀修三)さん(左から順に)の4人は共通カードを作った。

島さんは湯浅さんの自宅を訪問し、湯浅さんのリグを拝見したことがある。机の上に送受信機があり、机の下は戸棚となっており、その中に終段電力増幅器が隠されていた。湯浅さんは机の上のリグを指して「これは検定用のリグ」と笑って説明してくれたことを記憶している。いずれにしても、この頃は、皆異常な電力で運用しており、このため、海外のハムからは「日本は10Wと規制しているが、実際は野放しである」と批判され“ジャパニーズ10W”と揶揄されていた、と島さんはいう。ただし「皆さん技術力は素晴らしく、56MHzの送受信機を自作しているハムが多く、草間さんは抵抗器までも自作でした」と、戦後になって実際にそれぞれの作品を見せてもらっている。

先にも触れたが、昭和10年頃までのアマチュア無線界は関西主導型であった。当時「JARLニウス」の発行も関西からスタートした。このため、JARL本部の実質的役割は、初期の頃は関西が果たしていた。日本で初のWAC完成も関西の笠原さんであったが、JARLが行なった初の公開実験も大阪だった。関西のハムが活動的であったことの他に、東京(関東支部)にも原因があった。あまり知られていない話しであるが、この当時、関東支部は分裂状態にあった。

昭和4年頃の笠原さんのシャック。---JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より

矢木太郎(当時J1DO後J2GX)さんが昭和43年(1968年)に、JARLニュースに掲載したものを要約すると、アンカバー局とSWLとの集まりであったJARLは免許制度が始まり、ハムが増加するのにともない支部によっては矛盾が出始めた。関東支部もその一つであるが、幹部のNさんはSWLであり、会員の主流となりつつあった免許局の立場に立った活動ができなかった。この点が主要な原因となって会員の不満が爆発し、分裂状態となっていった。矢木さんらはN氏に改善を要求したり、実質的に本部機能をもっていた関西支部にも相談したが解決できず、JARLを脱退して新組織EART(イースタン・アマチュア・ラジオ・トランスミッターズ)を発足させた。

この結果、関東支部は消滅状態となりN氏はJARL幹部を引退、関西支部も関東支部に自主的再建を依頼してきたために、矢木さんらはEARTを解散し、昭和5年(1930年)5月に関東支部を改めて発足させた。新生の関東支部は、まず(1)会員は免許を有するものに限る。(2)会の運営は選出された委員の委員会によって行なう、の2項目を決め、分裂再発を防ぐ規約を定めている。なお、この年、昭和5年7月の「素人無線局」の数について逓信省は「無線電信および電話のもの」49局「電信のみのもの」7局「電話のみのもの」8局、合計64局と発表している。