アマチュア無線の免許制度がスタートしたが、逓信省や警察関係の取り締まりは厳しかった。通話時間を1分でもオーバーすると取り締まり部門から警告されたり、始末書を書かされたりしたという話は多い。中には、キーの打ち方が早すぎると注意されたハムもいた。昭和5年当時は戦火こそ見る事はなかったが、大陸(中国や満州)では現地の軍隊と小競り合いが起きており、また、引き続きソ連は警戒すべき国となっていた。このため、当時の憲兵隊は自由に海外と交信できるアマチュア無線にも目を光らせていた。憲兵隊は公安警察とも言うべきもので、利敵行為や思想を厳しく取り締まる戦前にあった組織だった。当時のハムも多くが嫌疑をかけられていた。徳大寺長麿さんは昭和5年1月に神戸憲兵分隊から丁重な文書を受け取ったあと、分隊長と下士官の来訪を受け、ソ連のハムから受け取ったQSLカードを参考品として持っていかれたという。

「JARL NEWS」の編集、発行は東京へと移り、朝日新聞社が印刷を無料で引き受けていたことは触れたが、その期間は22号から38号までで再び自力で発行することになった。東京に移った笠原さんは引き続き本部の会計を引きうけるなど活動しつつも「JARL NEWS」の原稿が不足するといつも執筆していたという。

戦前、戦後のハム達。前列左から塚村さん、原(現JARL会長)さん、草間さん、山本さん、後列左から魚谷さん、島さん。

一方、アマチュア無線の公開実験は昭和7年(1932年)の4月1日に大阪・東区にあった白木屋百貨店で開幕された「電気科学博覧会」の一環として行なわれ、2カ月間にわたる大イベントだった。JARL関西支部は短波長実験無線局を出品し、56MHzの発信機とレッヘルワイヤーを展示実演した。また、モデル無線局を設けるとともに、それまでに会員達が交信した海外のQSLカードと、交信した国を地図上でわかるようにして掲げた。山本信一(J3CS)さん、中村季一(J3CT)さんは当時、大阪電気局に勤務しており、この催しは大阪市の電灯事業市営化10周年事業として行なわれたため、2人は交代で会場に詰めたという。

大阪で開かれたJARL初の公開実験。左:J3CT 右:J3CS---JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より

その後、昭和10年頃にはアマチュア無線の主導権は東京へと移っていく。その動きは戦時色が強まっていくのに符合していたといえそうだ。関西のアマチュア無線は自由闊達に発展を遂げてきたが、時代はそれを許さなくなっていた。何人かのベテランハムはその技術力を買われて東京の企業に乞われて転籍したり、軍部に徴用されていった。したがって、この頃東京へと移転したハムも何人かいる。昭和7年には満州国の建国が宣言され、対外的には日本が「軍事大国」化したとの印象を植え付けた。国内では5.15事件が起き、軍部が力を持ち始めた。この頃から、アマチュア無線局は好むと好まざるに関わらず軍部に協力するようになっていく。

昭和7年3月2日、初めての非常通信訓練が関西で行なわれた。四国の高松で敵機の来襲をつかみ、大阪の空襲を事前に知ることを想定した訓練であった。この模様は、別の連載「四国のハム達。稲毛さんとその歴史」でも触れているが、さらに詳しく書いてみよう。引用は「日本アマチュア無線史」である。参加したハムは30数局。ほとんどの局が加わったといえそうである。高松では松原正(J4CF)さんが敵機発見の報を和歌山市の宮井宗一郎(J3DE)さんに通信。宮井さんからの通報は、宇治山田、四日市、名古屋、岐阜、彦根、京都、伊丹、神戸などへとリレー式に連絡される。もちろん、大阪市内のハム達にも漏れなく情報を伝達し、大阪市内や周辺の防衛体制を固めるシステムを作り上げた。この時の統制本部の役割を担ったのが梶井謙一(J3CC)さん、浅村恭三(J3CR)さんらであった。その後、このような非常通信は全国で実施されるようになったが、この関西での試みはその参考となった。