手元に戦前の「私設無線電信電話原簿」、「短波長実験報告処理簿」がある。ともに、当時の逓信省(各地区では逓信局)が保管していたものである。今は貴重な歴史的資料といえる。原簿の「私設の目的及事由」欄には現在では考えられないことであるが「学術研究並機器実験」と記載されており、戦前のアマチュア無線は趣味よりも、無線通信の発展を目的に許可されていたことが実際にわかる。

したがって、実験局には「実験研究の成績は毎月詳細を所轄逓信局を経由して逓信大臣に報告すべし」という規定があり、その報告を取りまとめたのが「短波長実験報告処理簿」である。手元にあるのは大阪逓信局の昭和8年4月から昭和10年1月までの約2年分の記録である。それを見ると、当然のことながらハムの一人一人の交信や、どのようなことをしていたかがわかり、それにより当時の技術レベルを知ることができる。

昭和8年4月~昭和10年1月の「短波長実験報告処理簿」

「処理簿」には、J3CBの草間さんからJ3FRの阪本さんまでの59局の報告があるが、島さんは、丹念にその「処理簿」を調べて当時の状況を纏めてくれた。それによると、送信機は自励発振が主であるが、当時、時代の先端をいくものとされていた周波数変動のない水晶制御方式(COPA=Cristal Ocs Power Amp)の試作や実験が4件報告されている。J3CRの浅村さんは短波用水晶板の研磨、切断実験を行ない、水晶の原石から発振子の作成を試みている。

免許は電信がほとんどであるが、当時、難しいといわれていた電話(音声)に挑戦する方もおり、今年(2002年)3月に亡くなったJ3DZ(J2DO、JA9CX)の江戸さんは、昭和8年4月に直列変調の実験を行なったと報告している。島さんは「これはアンテナ回路に直列にマイクを入れる方式」と想像している。

また、江戸さんは昭和9年6月には5極真空管UT59を使用してサープレッサー変調の実験を行なっており、さらに、コンデンサーマイクの試作も報告しているが「約70年も前の江戸さんの取り組みにはただただ敬服するのみ」と島さんは脱帽している。

報告している59局のうち56MHzの許可を持っている局は実に14局もあり、J3DCの武田さんの56MHz送信機の回路構成224(発信)-112A(逓倍)-245(逓倍)-856(終段)について、島さんは「立派なもの」と評価。J3CWの塚村(JA3AF)さんはこの頃からVHFに取り組んおり、戦後には関西で最初に144MHzの電波を出したことで知られている。

J3CXの河野さんは、UX-112AとUX-210の真空管を油の中に入れて冷却した場合、どの程度の無理がきくかの過負荷試験をしている。その結果、112Aは30W、210は50Wまで耐えたと報告しているが、島さんは「真空管を水冷、油冷にした話しは良く聞いたが、逓信省へ公式報告文書として提出しているとは思わなかった」と驚いている。

当時は、できるものは自作した。高価な測定器にも挑戦しており、J3DCの武田さんは真空管電圧計、J3DZの江戸さんはヘテロダイン波長計を試作している。また、J3DLの菅沼さんは同時送受信について考察している。詳細に処理簿を読んだ島さんは「未知のものに対する先人の考え方と、その解決のための苦労には頭の下がる思いです」と、感慨深げである。

ところで、戦時色が強まり出した昭和10年代、ハム達はどのような活動を続けていたのだろうか。各地区では無線機を使用しての防空演習が盛んになっていくが、通常のハム活動も大した制約もなく続けられていたといえる。島さんは昭和10年から昭和21年初めまでのJARL関西支部のミーティングへの出席者リストをまとめている。当時は出席者が氏名を自筆で記入する方法をとっており、それぞれの性格が偲ばれそうな貴重な資料でもある。

支部のミーティングは昭和10年2月6日から昭和16年3月までの間に21回も開催されており、その後は当然のことながら21年の1月27日までは開かれていない。太平洋戦争により、アマチュア無線活動が禁止された時期だからである。各出席者の署名リストには開催の年月日、会場名の他、時にはテーマなどが簡単に記入されている。例えば、昭和11年3月4日には大阪毎日新聞社の会議室を借り、林龍雄(J3CH)さんの「超短波無雑音受信機」、長田祝太郎(J3FC)さんの「マグネトロンの発振回路について」の研究成果が発表されている。

昭和10年9月、JARL関西支部例会の出席者リスト。

昭和55年のポートアイランド博覧会には記念局を設置。当時は戦前のハム達も元気だった。左から桜井さん、草間さん、山本さん、島さん、塚村さん、田路さん。