関西支部のミーティングの内容について続ける。昭和12年10月3日には梶井謙一(J3CC)さんが「昭和12年度関東防空演習に関して」説明、11月11日には「陸軍航空本部無線技術者募集の件」がテーマになるなど、ミーティングにも戦時色が強まっていく様子がわかる。昭和15年には年に5回も開催されており、時局が差し迫っていたことを知ることができる。また、これらのミーティングには大阪逓信局から関係者がしばしば出席しており、友好的な関係にあったことが伺える。

戦前のJ3CS山本信一さん宛の草間貫吉さんのQSLカード。

当時、一人のハムと大阪逓信局との間でやり取りした文書の束が見つかった。戦前のハムの平均的なハム生活の一端を知ることができるので、概要を紹介してみる。主人公は大阪市東区舟橋町に住んでいた井上玉光さんである。井上さんは明治41年生まれ、昭和6年3月関西大学法律学科卒業、昭和9年から日本電子工業株式会社で、有線無線電気通信機の研究・設計並びに技術指導に就く。アマチュア無線(私設無線電信無線電話)は昭和10年4月10日にJ3GCのコールサインで許可される。

許可の条件は「空中線電力5W以下」、機器実験(運用)の時間は「午前2時より同4時・・・・午後10時より同12時」、送話事項は「無線科学に関する事項及び音楽に限り、かつ、出版法及び新聞紙法において出版、掲載を禁止せられたる事項並びに所轄逓信局長において特に禁止する事項はこれを送話すべからず」等であった。

予備免許を取得した井上さんは施設(通信機器・アンテナなど)検査を受ける前の試験電波発信時にうっかり交信をしてしまう。5月3日、早くも大阪逓信局から井上さん当てに「施設無線電信無線電話取締の件」の文書が送られてきた。内容は「貴施設の無線電信無線電話」は検定未済であるにもかかわらず、別紙のような発信をした。施設無線電信無線電話規則第五十七条第九号に違反せるものにして甚だ不都合・・・・」とあり、別紙には発信した日時、発信の内容が細かに記載されている。

井上さんは翌5月4日付けで大阪逓信局長当てに「陳謝書」を提出。5月15日にようやく「施設無線電信無線電話検定証書」を交付される。同年7月27日には不法施設無線電信局「J2ZA」、11月2日には同じく「J8CF」と交信したとして「無線電信不法施設取締に関する件」との表題文書で注意を受け、(1)交信時刻(2)音色、感度及び通信技量(3)相手局からの通信内容(4)その他参考になる事項の提出を命じられている。

井上さんの陳謝書

昭和10年8月28日と昭和11年10月20日には「実験用私設無線電信無線電話の防空演習参加に関する件」の通達を受ける。ともにO月O日からO日まで防空演習があるため、この期間は「参加者に対し交信を求めざるは勿論貴施設無線電信無線電話の発信を最小限に止め本件通信に妨害を与えざるよう特に注意相成りたく候」という文書であり、参加者の氏名、コールサインが記載されている。

昭和14年11月30日、3度目の「無線電信無線電話不法施設取締の件」で警告される。大阪逓信局の「11月12日午後2時より7100KC(KHz)でJ7CKと交信したので詳細な報告を」の通達に対して、井上さんは12月2日付けで「J7CKではなくJ7CTである」と反論し、その時の詳しい状況報告を提出している。

大阪逓信局から井上さんへの注意文書「無線電信不法施設取締ニ関スル件」

当時の免許は1年間であり、その都度「延伸願」を提出し許可をあおいでいた。しかし、太平洋戦争開戦前後は行政が混乱していたせいか不思議なことがアマチュア無線界にも多発していた。井上さんの場合もそうである。昭和16年2月15日の延伸願は4月4日付けで「17年4月10日」まで認められるが、開戦1カ月後の17年1月6日に「使用停止」となる。

井上さんは仕事の関係から昭和17年3月10日に「延伸願」提出、これに対し4月15日に大阪逓信局は(1)使用が停止されており当分解除の見込みなく継続の希望に沿えないがそれでも延伸を必要とするか(2)国防無線隊に参加の意志があるかないか、なければその理由を求めている。