井上さんは、その回答を20日に提出。その中で、(1)日本電子工業で各種の電子管を製造及び、その付帯機器である無線関係装置製作の技術指導に従事しており、現在は極超短波発振管の試作中である。公私の全時間を技術、研究向上に当てたいがために延伸を希望しているが、当局の都合なれば致し方ない、(2)国防無線隊に入隊しているが、過去3年間は東京出張所長を兼務となっており、東部(関東)の国防無線隊に入隊を希望しているもののJARLにはその組織がなく、やむを得ず呼出には大阪に参加していた。

ところが連絡が取れなかったりして参加できない場合があり、昨年12月以降脱退となってしまった。しかし、今年2月より大阪本社に転勤したため、お役に立てるので斡旋していただきたい、と答えている。それに対して、大阪逓信局は24日に「18年4月10日」までの許可を下している。逓信省は開戦と同時にアマチュア無線を禁止したが、必ずしも全員に適用されたわけではないことがわかる。

昭和17年4月24日、18年4月10日までの延伸の許可書が出る。

戦前の関西のハム達は、太平洋戦争を潜り抜けてきた。島さんは「正確に調べたわけではありませんが、亡くなられた方はお一人と伺っています」という。しかし、戦後になって笠原さんが昭和39年にサイレントキーになられたのを最初に徐々に懐かしい名前が消えていった。この他の連載でしばしば触れてきたハムの集まりの一つに「レインボークラブ」がある。

戦前のハムの方の集まりであり、昭和56年(1981年)に「戦前、ハムを通じて培われた友情を、いつまでも大切にしよう」と素朴なスローガンを掲げて発足した。当然のことながら皆さん、明治か大正生まれの方でありご高齢となっている。このため、毎年総会を開催してきたが2001年2月の総会を最後に解散を決めた。その後は「レインボーDX会」の名称で、東京周辺の方々の昼食会として存続している。

今年(2002年)3月には「RAINBOW NEWS」NO21が発行されたが、出席できないOM(高齢のベテランハム)の方の「体調がすぐれず出席できません」というお詫びの手紙の内容と、直近にサイレントキーとなられた方への追悼文で埋まっている。もちろん、まだお元気な方もおり毎日運用を日課としているOMもおられる。日本のアマチュア無線を育てられ、戦後は「電子立国・日本」を築き上げてこられた方々が消えていく侘しさをひしひしと感じさせる「RAINBOW NEWS」でもある。

島さんがこれら戦前の関西のハムに出会ったのは、まだ皆さんが元気で活躍されていた戦後ほどない頃である。その後、島さん自身ハムとなり、近畿電波監理局に勤務したことから、公私ともの関係が続いた。多くの方と名刺を交換したが、その中の何枚かを探し出してくれた。「いずれもほぼ20年も前の名刺だと思います。井深さんは昭和50年頃でした。浅村さんは戦後コールサインを取られませんでした。一度、会社に伺った記憶がありますが、なぜ伺ったのか思い出せません」という。

1980年頃、島さんが交換した戦前ハムであった方々の名刺。

平成13年11月に開かれた「RAINBOW DX会」の模様。

「徳大寺さんはいわゆる“お公家”さん顔の紳士でした。昭和3年発行の米国コールブックなど古い資料を沢山お持ちでした。そこにはJXAXの草間さん以下の日本のコールサインも掲載されていました。南里さんは戦前、横浜でJ2NEであり、戦後は神戸で開局され、神戸出張所勤務であった私が検査に伺いました」とその頃の思い出を語っている。ちなみに、野瀬さんは日本にも知己の多い米国のハムであり、アマチュア無線でも、学業の分野でも活躍された。別の連載「九州のハム達。井波さんとその歴史」に詳しく紹介されている。

島さんが戦前、戦後を過ごした滋賀県の戦前のハムは2名しかいなかった。彦根の岸辺與惣次郎(J3DP、旧姓・橋詰)さんと、戦時中、新日本電気大津工場(現・NEC大津工場)に転勤してきた福島一郎(J2ME)さんだった。島さんが昭和23年にJARLに入会し、SWLナンバーをもらったことは最初に触れた。JARLニュース(当時は雑誌・CQ ham radioの中にページが割かれていた)で島さんは京都に京都クラブがあるのを知り、そのミーティングに参加している。