「島さんの京都クラブへの参加は「情報を得るためであった」という。当時、JARLはアマチュア無線の再開に向けて組織の拡大を図るため、その一貫として各地域にクラブを設立することを勧めてもいた。島さんたちは滋賀クラブの設立に動き出す。大津から大阪に列車通勤していた仲間の一人、林清美(JA3JK)さんなどの他、広田肇(JA3AG)さん、大津工業学校の友達、近所の人達10名ほどが集まり、昭和24年(1949年)の初めに設立された。京都クラブの約1年遅れの発足である。

太平洋戦争で敗戦国となった日本は、米国を中心としたGHQ(進駐軍、日本国占領軍総司令部)によって支配されており、アマチュア無線の再開も簡単に進まなかったのもGHQの意向が原因であった。事実、無線どころかクラブの設立も問題視された。島さんはクラブ登録のためにJARLに申請書を郵送で提出した。その郵便物がGHQの手紙の検閲に引っかかってしまった。

島さんによると、その申請書の提出は「昭和23年の後半か、24年の初めだったかはっきりしない」という。当時、島さんは大阪逓信局に勤務し、大阪工業大学の夜間部に通っていた。そのため、大津から大阪への通勤は不便であり、土曜、日曜以外は大阪・摂津富田の親戚の家に泊まっていた。ある日夜中の12時頃、戸をドンドンと叩く音がする。外に出ると、警察官が立っており「あなたが島伊三治か」と聞かれた。

警察官は「GHQからの出頭命令が出ており、明日の10時までに大津のCIC(民間情報局)に行くように」と告げた。「GHQの出頭命令は大津警察署が受けて、自宅に連絡したが本人は摂津富田にいるということで、緊急電が大津警察からあった。家を探すのが大変であった。出頭命令の理由はわからない。出頭しなければ大変なことになるやも知れない」と警察官は状況を説明してくれた。

JARLへの申請から1カ月以上も立っており、島さんはその件とは予想もつかず「GHQに呼び出されることは何もしていないはず」と思いながら、翌日は早朝の汽車で大津に戻った。CICの出先は、現在の大津紅葉館の辺りにあり、そこで追求されたことは、滋賀クラブについて「メンバーはいかなる人物の集まりか、これが認められない時にはどのようにするのか」と厳しかった。

滋賀クラブは昭和36年にニュース「88Ham radio」100を発行する。表紙デザインは今でも変わらない。

幸いにも、通訳の日系2世の友人にアマチュア無線の愛好家がいたことから、ハムのことを良く理解してくれて事無きを得たらしい。「当時のGHQは、このようなグループの結成について思想的なつながりのものではないか、と非常に神経質になっていました。私の場合は案外短時間で話しが終わったように記憶しています」と、島さんは振り返っている。

話しを数年遡らせるが、島さんが大津工業学校に進み、戦時下を過ごしたことは最初に触れた。実は、昭和18年(1943年)に入学したのは「大津商業学校」だった。それが1年足らずで「大津工業学校」に校名変更となった。島さんは、最初は"近江商人"にあこがれて商業を選択した。が、学校ぐるみ内容が変わってしまったのである。校名の変更については「理由はわかりませんが、戦力強化のためには商業人を育成するよりも、技術を持った若者の数を増やすのが国策に添う、と判断したのでは」と推測している。

変更に生徒も驚いたが「先生方の方が深刻であった。恐慌をきたしてしまった」と島さんはいう。昨日まで簿記を教えていた先生が、翌日からは電磁波などを教えなければならなくなったからである。昭和21年頃、後に関西テレビ、そして広島テレビに勤務することになった無線通信に詳しい中島保先生との出会いが、島少年を"ラジオ少年"にした。その後、ラジオを自作し、短波を聞きSWLとなり、そして京都クラブへの参加、滋賀クラブの設立となる。

滋賀クラブを発足させた後、島さんはSWLに熱中した。海外のアマチュア局に受信レポートを出し、QSLカード集め始めた。滋賀クラブでは「SWLナンバーJ3-67の小川仁美(JA3AJ)さん、J3-178の広田肇(JA3AG)さんらとSWLナンバーを入れたSWLカードを作った」ことが懐かしいという。

SWL時代の島さん。昭和27年6月、左から2人目が島さん。