戦時中は、ラジオを作ろうにも部品が入手難であった。このため、島さんがラジオの自作に取り組み始めたのは戦後になってからである。もっぱら、購入する場所は大阪の電気店街である日本橋。現在の日本橋と異なり、電気製品の完成品はほとんど並んではいず、ジャンクや電子部品の店舗が多かった。大津から京阪電車に乗リ、京都の三条駅で乗り換え、大阪の天満橋まで行き日本橋までは歩いた。

現在、京阪電車の大阪の終点は淀屋橋であるが、当時は天満橋であった。天満橋から日本橋までは約4Km、ラジオ少年の島さんにとっては別に長い距離ではなかった。この頃、ほとんどのラジオ少年は真空管などの部品を購入する小遣いに困っていた。ラジオを組立て、隣り近所に販売するアルバイトをして、小遣い稼ぎをするケースが多かった。しかし、島さんは「そうした記憶はない。家は豊かだった訳ではありませんが、部品代に困った事はなかった気がする」という。

その後、島さんはハムにあこがれ、アマチュア無線の再開を望む活動にも参加していた。再開活動は、必然的にJARLの東京が中心となったが、関西では関西支部のメンバーも盛んにミーティングを持ち、情報交換の機会を持った。「ミーティングの場所は神戸の元町近くの喫茶店か、大阪の上本町6丁目にあった旅館が多かった。いつも20名ほどの方が集まった」と島さんは振り返る。

昭和28年頃の関西支部ミーティング。座っているのが、左からJ2AO、3AC、3AE、立っているのが、左からJ2AT、一人置いて、3AF、さらに一人置いて3AU、3AA、3BB、3AP、3AV、3AE。名古屋からの参加者もあった。

このミーティングを通じて、島さんは戦前のハム達と交流を深めていった。JARLの熱心な再開活動にもかかわらず、事態は一向に進展しなかった。同じ敗戦国のドイツではアンカバー交信が、アマチュア無線の再開を促進したとの情報が伝えられると、待ちきれなくなった一部のアマチュア無線志望者は、良かれと思って不法電波を出したりした。

しかし、島さんはそれを取り締まる側の大阪逓信局の職員であり「アンカバー交信をするなどとんでもないことだった」という。もっとも、後に初交信の時「緊張で手が震えてどうしょうもない。こんなことなら、アンカバーをやっておけば良かった、とその時は真剣に思いました」と笑う。

昭和25年(1950年)、電波法を含むいわゆる"電波3法"が成立し、アマチュア無線局とアマチュア無線技士の名称が生まれる。しかし、実際にアマチュア無線技士の国家試験が行なわれたの約1年後の昭和26年6月であった。実質的に電波行政を握っているのはGHQであったことから、JARLの会員はこぞって、免許再開の嘆願書を提出した。やはり仕事上そのような行動ができなかったため、島さんは「嘆願書の記憶はない」という。

この時期、JARLの組織は関東、関西、東海、東北の4支部制であり、関西支部は関西か九州までの広大なエリアを持っていた。全会員は120名であり、内訳は大阪府19名、京都府24名、兵庫県35名、奈良県1名、和歌山県5名、四国2名、中国15名、九州14名であった。

6月の第1回国家試験には、関西2府4県からは1級アマの申請38名、合格18名、2級アマの申請26名、合格2名であり、全国12試験場別では1級アマ合格は最多であったが、2級アマの合格率は最低だった。もちろん、島さんは1アマに挑戦し合格している。全国では、1級アマに47名、2級アマには59名が合格した。

合格者は一斉に免許の申請を行なった。申請書はまことに面倒なものであり、当時、放送局に勤務していたか、逓信省関係で仕事をしている人を除くと、全員がそのわずらわしさに手を焼いた。島さんは、大阪逓信局勤務であり知識はあったが「東京の庄野さんから送られてきた申請書の写しが非常に役立った」という。

予備免許が下りるまでさらに時間がかかった。昭和27年(1952年)7月29日になって全国の30名に交付された。島さんのコールサインはJA3AA。近畿からは6名の名が発表されている。島さんは、通勤電車の中で前の人の読んでいた新聞で予備免許が下りたことを知った。

滋賀クラブ、昭和29年1月の浜大津でのミーティング。後列右から5人目が島さん。