50年前のこの時の様子を島さんは思い出している。「座席の前の人に新聞を見せていただくと、西日本関係の予備免許取得者名が並んでいる。大阪市・湯浅楠敬、久留米市・宮原精一郎、熊本市・板橋康博、同・熊野清美、神戸市・武井俊男、京都市・藤本大八、同・深田博三・・・・と名前が続いているが、私の名前が出てこない」

島さんはあせってきた。「申請書を出したのは関西では一番早かった。書類に不備があったために落とされたのだろうか。だんだん心配になってきた頃に、ようやく自分の名前が出てきましてね。ほっとするとともに喜びが湧いてきました。滋賀県が一番最後になっていたわけです」申請書を書いてから5カ月目の予備免許だった。

島さんの無線局免許申請書。

この予備免許から今年は50年。島さんら関西のハム仲間はそれを記念した「アマチュア無線再開50周年記念行事」の企画を進めてきた。そのイベントは、8月9日と10日に大阪・天王寺区の大阪国際交流センターで開かれる。自作の通信機、旧日本軍が使用した通信機、米軍の通信機などの他、アマチュア無線に関係する写真,新聞記事,切手などが展示される。

「アマチュア無線際会50周年記念行事」が開かれる大阪国際交流センター。

9日には夏休み中の子供達を対象にした「ファミリー電波教室」や、大人達にとっては懐かしい「鉱石ラジオ工作」に大人が取り組む企画もある。10日には小ホールを会場にして、今話題のデジタルアマチュア無線の紹介、説明がある。島さんとほぼ同時期に免許を取得した各エリアの「AA」さんも揃う予定である。

JA1AA・庄野久男さん、JA5AA・久米正雄さん,JA9AA・円間毅一さん、JA0AA・阿部功さんである。庄野さんは50年以上前のアマチュア無線再開時の苦心談を披露することになっている。また、10日の夜は、毎年開催している「昔を語ろう会・807の会」のパーティも予定されている。開場は9日が12時から、10日が10時から。

再び50年前に戻る。島さんは、予備免許は下りたが、周波数や空中線電力などの条件はわからない。そこで、東京の電波監理委員会に電話をして聞いた。その結果、14、21MHzのA1が200W、A3が70W、28MHzのA1、A3が50Wであり、コールサインはJA3AAであることがわかった。

その日、島さんは午後から休暇を取り、徹夜で送信機を組立てた。新設検査は、島さんがもっとも早く8月4日に行なわれた。アマチュア無線としては初めての検査のため、測定できるものはすべて測ろうと、トラック一杯の測定器が持ちこまれた。「身内の検査なので多少は甘くしてくれるかと見ていると、むしろ厳しかった。検査のスタンダードをすべてやっていた」という。

検査では28MHzの第2高調波が規定値を上回っていることが問題となり、何度も何度も調整しては測定し直した。このため、測定が終了した時には外は暗くなっていた。14MHzでの試験電波は欧州、米国、アフリカまで届いた。戦後始めて日本のアマチュア無線局が発射した電波であった。それだけに、世界中から交信を呼びかけられた。

ところが、当時は新設検査に合格しても、免許状が到着するまでは交信することができなかった。検査官からは「本免許までいかなる電波の発射も許さない。あなたは電波監理局の職員であり、特に注意して欲しい」と注意され「その後の約1カ月間、運用できずつらい日々を過ごした」と島さんは苦笑する。

試験電波は機器、空中線の調整のために発射するものであり、交信はできない。それからしばらくたったある日、14MHzをワッチしているとJA8AAの試験電波が聞こえてきた。一緒に予備免許をもらった北海道の浜赳夫さんであり、日本のアマチュア局を聞いた最初であった。当然ながら島さんは感激した。

「私は、浜さんの試験電波発射が終了するのを待って、EX EX DE JA3AAと電波を発射した。発射し終わると、すぐに向こうからもEX EX DE JA8AAと返ってくる。それで、こちらの電波も北海道に届いていることがわかった」という。交信はできないが、このようにして電波伝播の状況を確認するとともに、はやる気持ちを押さえていた。

本免許は8月27日。この日付で市川洋(JA1AB)さん、中山爽(JA1AF)さん、小宮幸雄(JA1AH)さん、谷口浄(JA1AJ)さんを含めて5名が本免許を取得している。島さんのところには9月になって免許状が届き、初交信は9月2日となった。島さんはかねてから、ファーストQSは難しいと言われていたアフリカと決めていた。

島さんが受け取った予備免許状。