初交信の夜、欧州が強く入ってきたが、交信を我慢してアフリカを待ちつづけた。深夜になってもアフリカは入ってこない。その内に、14MHzでは欧州も聞こえなくなった。一晩中起きていて「どこでもいいからQSOを」とあせるものの、どこからも反応がない。朝になってようやくフィリピンのDU1CEとの交信となり、それが初交信となった。

島さんの最初のQSLカード。

朝の7時15分にDU1CE、8時30分にDU1DOと交信したが「DU1CEとは何を送信したかは良くおぼえていない」という。戦後のわが国のアマチュア無線初交信は、7MHzでは市川さんであり、14MHzでは島さんだった。

開局後、島さんは毎朝14MHzの電信にでた。当初の交信相手はVK(オーストラリア)が多く、次いでZL(ニュージーランド)や太平洋にある島々だった。ファーストQSOとして狙っていたアフリカと交信できたのは、1カ月以上も経った10月12日になった。また、JA8AA、浜さんとは9月5日に交信できた。

島さんは自局の運用とともに、JARL滋賀クラブ、関西支部の活動にも積極的に関わった。その一つが、講習会の開催であった。再開以来、ハムの活動振りがしばしばマスコミに取り上げられるようになった。また、昭和25年の朝鮮動乱は軍需を作りだし、日本経済を立て直し、戦後の悲惨な生活から国民もようやく脱しつつあった。

開局当時の島さんと自作機。

このように国民が、生活面でも精神面でもゆとりを持ち始めたことも影響してか、アマチュア無線に対する関心が高まってきた。このため、関西支部ではアマチュア無線がどのようなものかをPRすることになった。昭和28年、第1回が大阪朝日新聞社の講堂で、電波法についてのテーマで行なわれた。

再開された関西支部は、支部長に塚村泰夫(JA3AU)さんが就任し、役員には戦前のハムが名を連ねて運営していた。ちなみに、昭和27年から34年までの間、JARLの役員であったJA3のハムは塚村さんの他、湯浅楠敬(JA3TT)さん、島さん、岡谷重雄(JA3BB)さん、桜井一郎(JA3AF)さん、真田隆幸(JA3CA)さんの6名だった。

このうち4名が戦前のハムであり、島さんは真田さんとともに、早くからJARLで活躍していたことがわかる。当時、島さんは関西支部の幹事の1人であったが、その頃を振り返って「関西では戦前のハムの方が戦後も先頭に立ってくれたので良かった。私とは年齢は20才以上離れていたこともあり、私は下っ端として走り使いをしてました」という。

昭和29年(1954年)の講習会には、JARLの理事長となった梶井謙一(JA1FG)さんに講師を依頼、31年にはモールスコードの講習を行なうなど、徐々にレベルが高くなっていった。いずれの講習会も会場に入りきれないほどの盛況さであった。島さんは、この時、初めて大勢の人前で話しをするのを体験したという。

29年には、大阪市西区新町にあった大阪市立電気科学館の改装にともない「アマチュア無線コーナー」が常設された。当時は、社団局(クラブ局)の考え方がなかったこともあり、受信機のみを設置し、パネルを展示した。島さんによると「記憶がはっきりしないが、戦前のハムであった中村季雄(J3CT)さんが、その科学館に勤務しており、便宜を図ってくれたと思う」という。

オープニングの日、1人の高齢な方が会場を見て回る途中、我々のコーナーを訪れ、空いている椅子に座りこまれた。島さんは、アマチュア無線について初歩的な説明を始めたが、企業の経営者らしい人達が次々と来て挨拶をしている。「後で名刺を交換したところ当時の大阪商工会議所の杉道助会頭であり、びっくりした」ことを思い出している。

昭和30年(1955年)には、大阪市内の高島屋百貨店で行なわれた「伸び行く電波と電気通信展」で、アマチュア無線の公開運用を実施した。「伸び行く電波と電気通信展は」第1回が昭和24年に東京で開かれた。その後、昭和25年に電波3法が施行されたのに伴ない、翌26年からは6月1日の「電波の日」の記念行事として、その後、しばらくは東京と大阪で続けられた。

昭和31年にも高島屋で行われたアマチュア無線公開運用。操作しているのは島さん。

島さんは自作の1号機を出品し、徹夜でコーナーを設営するとともに、会期中の6日間は説明員として詰めた。当時の郵政省の行事でもあり、近畿電波監理局(前大阪逓信局)勤務の島さんにとってはそれも業務であった。