昭和30年(1955年)、アマチュア無線の移動局が認められることになった。それまでは、イベント会場に固定機を持ちこみ、その都度変更検査を受けてから運用しなければならなかった。もちろん、移動局用の機器は検定を受ける必要があるが、合格すればどこに持っていっても運用することができる。

固定された自局を離れて、勤務先のビルの屋上からでも、公園からでも、山の上からでも運用できることになり、交信の自由さが広がるため、多くのハムがポータブル機の自作に取り組んだ。当時、学生であった真田隆幸(JA3CA)さんが、島さんに言った。「作りましょう。私が作リますから」と。真田さんは、送信管3Q5GTを使用した0.5W、受信機1-V-1の電池電源の3.5MHz/7MHzのポータブル送受信機を短期間で作り上げた。

そのポータブル機を試す絶好の機会がやってきた。4月末、島さんは、戦前J3GL、この頃はJA3BDになっていた小野照美さんと北アルプスにスキーにいく。島さんはスキーも趣味であった。予備のA電池、B電池を含めると通信機は「とんでもない重量となったが、運用の絶好の機会と思い背負って行った」と、当時の模様を話してくれた。

ポータブル機を抱えている島さん。本体より電池の方が重かった。

季節は新緑がまばゆい5月。長野県の信濃大町から白馬大池に出て、最初の晩は栂池に泊った。5月であったが周辺は残雪の世界、早速、ポータブル機を取りだし、木から木にアンテナを張り渡して交信を始めた。JARL発行の「アマチュア無線のあゆみ」には「こちらはJA3AA/RL、日本アルプス蓮華温泉に移動中。お湯の中から送信しています。どなたかお聞きの局ありましたら応答下さい」と書かれている。

島さんは「確かにその通りに呼びかけたが、応答はまったくなかった」という。「出力が足りなかったと思う」と分析している。翌朝、起きてみると昨日張ったアンテナ線に氷がびっしりと着き、直径が2、3cmほどになっていた。

翌日の晩は蓮華温泉に一泊した。予め連絡していたため、山小屋はその年の初開きとしてくれた。食事をして休んでいると、戸を叩く音がする。島さんが開けると、昨晩、栂池の小屋で同宿していたAさんである。「同行している友人が捻挫をしてしまい、動けずにいる。ここに連れてくるのを手伝って欲しい」という。

すぐに山小屋の主人が出かけたが、いつになっても帰ってこない。島さんと小野さんは心配になり出かけることにした。しばらく行くと、怪我人も後の2人も雪の上に座りこんでいる様子が雪明りにシルエットになって見える。「どうしたのですか」と聞くと「どうやら複雑骨折らしく、少し動かしても痛むらしく、背負ってここまで来たが疲れてしまって動けない」との返事。

島さんらはスキー板を平行にして縛り付け、応急の担架を作り、怪我人を乗せ引っ張ることにする。動くたびに痛さに悲鳴を上げる怪我人を無視して、谷と峠を越えて山小屋まで引き上げた。翌朝早く、ふもとから救助隊を呼ぶためAさんは下山した。「下に着くまで丸1日、上がってくるのにさらに1日かかる。ポータブル機での交信ができたら」と島さんは歯噛みした。

蓮華温泉でのポータブル運用。この後、実際に野天風呂につかりながら送信したが、応答はなかった。

「山岳遭難で、初のアマチュア無線活躍」の機会を逃した島さんは、その後大阪湾のボートから、また、ビルの屋上から交信し、ポータブル機の楽しさを満喫した。その後、全国の各地でも自作ポータブル機が活躍し始め、やがて、携帯できる機器はハンディ機、車の中で使用する機器はモービル機へと発展していくことになる。

昭和30年9月25日、大阪朝日新聞社の講堂でJARL総会が開かれた。戦後、再発足したJARLは、昭和27年から総会を開催、第1回、第2回は東京、第3回は名古屋市で開いており、大阪では初の総会となった。当時のアマチュア局は約3500局、JARL会員は1816名であった。総会出席者は186名、委任状を含めると1024名に達し、地元のJA3局の出席は111名であった。

大阪朝日新聞社で行われたJARLの30年度定時総会。挨拶する平林金之助・近畿電波管理局長、その右が梶井健一・JARL理事長。

この大会では、会費の配分が大きな議題となった。この件については、原昌三・JARL会長の連載「私のアマチュア無線人生」で詳しく紹介しているが、簡単に触れておこう。それまで、1人月50円の会費は各支部が60%を取り、残りの40%を本部に送っていた。このため、本部の財政は赤字であり、このままでは今後のJARL活動の発展が望めない、というのが本部の見解であった。

改正案は会費は本部が直接集金し、20%を支部に支給するというものであった。総会前日の役員会では各支部から強い反対があり、徹夜の会議となり、決着がついたのは総会当日の朝4時となっていた。総会では,また、和歌山市の宮井宗一郎(戦前J3DE)さんが名誉盟員(会員)に選ばれた。宮井さんは戦前、自費でコールサインブックを苦労しながら発行されており,その労に報いたものであった。