この年、昭和30年の10月、島さんは大阪府藤井寺町(現在の藤井寺市)に移転し、間借り生活を始める。結婚を機会に新居に移ったが、「間借りのためアンテナが張れなかったためと、結婚後は小遣いが自由に使えなくなったため、ししばらくアマチュア無線活動から遠のきまして」と島さんは当時を思い出して苦笑いする。

昭和30年、島さんの家の周辺には野原もあり、ロケーションも良好であった。

翌31年9月、隣り町の古市町(現在の羽曳野市)に自宅を設けた。それにともない島さんのハム活動も再び活発になった。この頃、ハムの間で大きな話題となったフランス映画がある。陸地を遠く離れた漁船の中で病人が出、他の船員にも感染しそうな危機的な状況をアマチュア無線によるリレーで救うという物語であった。

現在でも、もう一度見たいというファンの多いこの映画の題名は「空と海との間に」であり、封切されたのは昭和31年7月。JARLはこの映画を推薦映画とした。JARL関西支部は、早速大阪市・平野区のガスビルのホールを借りて、アマチュア無線に関する講演会と映画の上映を企画した。この時、講師となったのが平林金之助・近畿電波監理局長と、塚村・JARL関西支部長であった。

[許可の出ない160mバンド] 

一方、島さんは160mバンドでの交信に強い興味を持っていた。といっても実際に160mバンドが許可されたのは昭和39年(1964年)であった。160mバンドは海外ではアマチュア無線に開放されており、また、戦前にはわが国でもアマチュア無線に開放されていた。その160mバンドに島さんが興味を持ったのには2つの理由があった。

当時、島さんは近畿電波監理局で船舶無線の担当をしていた。「船舶は500KHzの中波帯を使っており、同じ中波である160mでの伝播状況を知りたかった」のが一つの理由。もう一つは、米国のARRL(米国アマチュア無線連盟)の機関紙であるQSTで、米国での160mバンドの活発な運用を知ったからである。

QSTには、昭和28年(1953年)にスチュワート(W1BB)さんが160mで世界初のWAC(ワークト・オール・コンチネンツ、世界6大陸との交信)を達成した、と出ていた。島さんの血が騒いだ。昭和29年の9月、同じような思いの庄野久男(JA1AA)さん、桑原武夫(JA1CR)さん、池田裕治(JA1CJ)さんらは160mバンドである1.9MHzでの免許申請を行なった。島さんの申請は3カ月遅れの11月になった。

この申請に対して、当時の郵政省は「割り当てできる周波数はない」と却下した。昭和33年、島さんは東京で開かれた郵政省職員の長期研修会のために上京。1.9MHzの申請を行なっていた他の3人とともに郵政省内の関連部局を走り回って、説明するとともに嘆願書を提出した。しかし、容易に許可が出そうな感触は得られなかった。それでも、島さんは「この時の陳情は後に効果を生んだと思っている」という。

[待望の160mバンド免許] 

JARLも動いた。許可されるまでの関連した動きは、別の連載である原昌三・JARL会長の「私のアマチュア無線人生」にやや詳しく触れられている。許可されない理由の一つが船舶用のロラン局との混信にあったため、JARLは昭和38年(1963年)最初は室内で、次いで静岡港で1875KHzでの実験を行ない混信の心配がないことを立証した。

160mバンド許可されたのは39年4月4日。この年はIQSY(太陽極小期国際観測年)であり、JARLはアマチュア無線を使って協力することにし、その一環として16OmMバンドによる大陸間伝播調査を要請、郵政省から許可される。

許可された周波数は1880KHzで40年末までの期限付き。許可条件は1級アマチュア無線資格者、電波形式はA1、出力は200W。島さんはすぐに送信機を組立て、免許を待つ。ところが、免許をもらったものの交信相手がいない。4月20日に電波を出すものの応対の信号はなかった。そこで、すぐ近くに住んでいた清水彰夫(JA3JM)さんに協力を求めた。

島さんが160mバンドで交信したQSLカードの一部。

清水さんも急いで1.9MHz送信機を作り、5月13日、島さんら近畿電波監理局の職員により、清水宅で局設備の検査を受ける。島さんはその足で家に帰り、清水さんと交信。わが国での1.9MHzによる国内交信の第1号はこのようにして達成された。