島さんは、次いで海外とのDXに挑戦する。「戦前もこのバンド(160mバンド)でのDXはまったく行なわれていないため、参考にするデータはなく、手探りでやらなければならない、と考えた」という。シンガポールのVS1LPさんに手紙を書き、毎晩0時に交信のスケジュールを組む。

[海外との初交信達成] 

160mバンドは夏場は届きが悪くオフシーズンである。島さんは半ばあきらめながらも、毎晩オンエアを繰り返した。実は大阪では当時、NHKと民放局との放送周波数の和が1880KHzとなり、干渉に悩まされていた。トラップを入れた対策を講じてはいたがNHKの放送が終了する午前0時に耳を澄ますことにしていた。

6月28日午前0時5分「ビート妨害がなくなった時、ノイズすれすれに何かが聞こえてきた。JA3AAと呼ぶVS1LPの信号だった」これが海外との160mバンドによる初交信となった。「このQSOは終生忘れることのできない思い出となった」と、この時を島さんは思い出している。島さんは、このバンドでの交信に積極的に挑戦したものの、許可された期限である昭和40年(1965年)の年末はすぐにやってきてしまった。

島さんが発行した「160mバンドニュース」ガリ切り、謄写版印刷、宛名書き、と大変な労力だった。

[本格的な160mバンド開放] 

しかし、160mバンドの本格的開放は意外に早くやってきた。翌41年(1966年)6月から1907.5KHz-1912.5KHzのバンドでの許可が出され、しかも、電信級から1アマまでの各級ともに交信ができるようになった。これを契機に各地で160mバンドに取り組むハムが増加。島さんは「160mバンドニュース」をガリ版刷りで発行、当初は50部ほどを配布し、後に部数は200部近くに達した。

ニュースの発行は昭和42年から48年までの6年間続けられ、主に10月から3月までの冬場に3回程度の発行であった。このニュースの存在が知られるのにともない、各地から切手を貼った返信用封筒が送られて来るようになり、宛名書きの手間や経済面での負担もやや楽になったという。

「160mバンドへの誘い」と題した連載を電波新聞に掲載するとともに、CQ誌のDX欄の160m担当になる。さらに、47年には「160メーターハンドブック」をCQ出版社から発行する。島さんはこのような表現を好まないが「日本の160mバンドの神様」的存在となった。

CQ誌の連載では「夏場になると届きが悪く、海外との交信は難しい。連載は休むわけにいかず、交信の少ない夏場の連載に苦労した。結局、国内との交信状況で埋めたことを思い出しますよ」と島さん。この連載は10年ほど続くことになる。

CQ出版社から発行された「160メーターハンドブック」。

昭和44年(1969年)、わが国のアマチュア無線の歴史の上では忘れられない出来事があった。小笠原諸島の日本本土への復帰と、オールアジアコンテスト実施10周年を記念して父島でのDXぺディションが行なわれた。JARLとしては始めてのぺディションであった。当時ぺディションでは3.5MHzより上のバンドが使われていたが、島さんは160mでの運用実現にに努力する。

この頃には、アマチュア無線機は自作からメーカーの市販品に移っていたが、160mバンドのメーカー品はなかった。島さんは当時の井上電機製作所(現在のアイコム)に依頼して、3.5-28MH用リニアアンプIC-2Kを160m用に改造して貸与してもらうとともに、清水(JA3JM)さんの自作機を予備機として借りだし、さらにこのバンドに精通している岸本賢一(JA3UI)さんが父島に乗り込んだ。

[160mバンドの思い出] 

このように島さんにとっての160mバンドの思い出は多い。8月29日15時、父島の特別局JD1YABがCQを出し、結局、佐渡の山崎正行(JA0SX)さんが初交信をし、最終的には43局が交信に成功した。2年後の昭和46年(1961年)3月24日、IARUの第3地域の会議が東京で開かれた。IARUの会長であるボブ・デニストン(W0DX)さんとニュージーランドアマチュア連盟会長クラーク(ZL2AZ)さん、フイリピンアマチュア無線連盟会長アシストレス(DU1EA)さんらも出席し、盛大な会議となった。

父島に渡った岸本賢一さん。

会議終了後3人が香港に寄っていくことを知った島さんは、香港からの160m運用を依頼、快く引き受けてもらうことになった。香港ではフィル(VS6DR)さんの局、マカオでは当時の郵政局長官であったマセド・ピント(CR9AK)さんの局での運用が行われた。