日本では昭和46年(1971年)に島さんが160mバンドでWAJA(ワークド・オールジャパン・アワード、47都道府県との交信)を完成させている。最後まで残っていたのは徳島県であり、この年の8月6日、ようやく徳島とのQSOができた。ただし、その陰には京都の菅直洋(JA3ALO)さんの冒険があった。

徳島入りを狙っていた菅さんは、九州に上陸した台風19号のため、瀬戸内海を行き来するフェリーの欠航で断念。翌日、その余韻が残る神戸でフェリーの就航再開を待つが、長蛇の乗船待ちの車の列を見て、車を捨てて乗船できる車に便乗を依頼。神戸-淡路、淡路-徳島と乗り継いで徳島入り。鳴門港の食堂に電気と軒先を借して欲しいと頼み込み、戸車のレールをアースにする。

徳島に強行上陸(?)した菅さんのQSLカード。

その後、どういうわけか菅さんはワニ口に100円硬貨をくわえさせ、別のワニ口と接触させたり離したりしてキー代わりにしての送信を行なった。時刻は午後9時。島さんとの交信は成功。島さんはせっかくの機会と、清水さんら4、5名に連絡し菅さんとのQSOを達成させた。大変だったのは管さんである。フェリー待ちのトラックの運転手達に取り巻かれ、雨が吹き込む中で、切れたアンテナをつないだり、食堂からは売れるものが無くなったので店を閉めたいというのをなだめすかしての交信であった。

この頃の日本の160mバンドマニアの関心事は、日本でWACができないかということだった。1953年にW1BBがWACを完成して以来、この頃までに米国、欧州を中心に約40名がWACを達成していた。すでに、アジアで初のWACはイランのハーリー(EP2BQ)さんが獲得していた。

160mバンドでアジア初のWAC達成のハーリーさん。

[熾烈なWACレース] 

松本さんは「イランは地の利があり、日本よりやりやすかったかも知れない」と、記している。そのような不利な地域にもかかわらず、すでに日本でも6大陸のうちアジア、北米、欧州、オセアニアは交信されており、残りは南米とアフリカとなっていた。昭和48年(1973年)1月、真中二郎(JA1MCU)さんがケニアの5Z4KLKの信号を聞いた、というニュースを耳にした松本さんは「1月26、27日に160mバンド最大のコンテストであるCQ-WW-160Mコンテストが行なわれる。もしかしたらと夜通し聞いていたところ、朝5時半頃5Z4KLの信号を捕らえ、興奮しながらコールした」という。

これが日本初のアフリカであったが、この後、真中さん、島さんがQSOを果たした。この結果、日本では南米のみが残ることになった。ただ、松本さんは欧州も未交信であった。この時点で、WACレースは松本さんが欧州、南米を残し、島さん、真中さんが南米のみを残していた。

松本さんは7月8日、20時にアルゼンチンのLU5HFIの「CQ JA」を受信、QSOに成功した。日本と南米の初交信であった。日本は夏であるが、南米は冬でありコンディションは悪くなかったが、LU5HFIの信号は他のエリアでは聞こえなかったという。

島さんの160mについての思い出の一つに、英国との初交信を逃したことがある。昭和40年1月31日「CQ-WW-160mコンテスト」に参加、島さんは設置許可を取り200W送信機を生駒山山頂に上げて交信。1803KHzの英国の局を受信するも、日本の許可された周波数外。残念な思いで交信をあきらめている。

ところで、島さん、松本さん、真中さんの3人は、それぞれが1大陸を残すだけの競争となり、初のWACは誰かで日本のアマチュア無線界は大騒ぎし始めた。松本さんは毎朝日の出時刻に欧州をねらってCQ、一方、島さん、真中さんは南米をねらってCQを出し続けていた。そして、決着は12月1日にやってきた。

島さんが獲得した160mバンドでのたくさんのアワード。

[アジアではEP2BQについで2番目] 

この日朝6時50分、松本さんはドイツのDL1FFと交信、ついにWACを達成した。松本さんはDL1FFからのQSLカード到着を待つ間、翌年昭和49年(1974年)1月4日にブラジルのPY1ROとの交信にも成功。翌日、富樫国和(JA7NI)さん、真中さんが交信、真中さんは松本さんに次いで2番目のWAC完成を果たした。

もっとも、アワードは相手からのQSLカードを受け取って始めて成立する。松本さんのドイツからが先か、真中さんのブラジルからが先か。松本さんへのQSLカードは1月10日に到着、その日の内にJARLに申請が出され、13日に受理された。一方の真中さんにブラジルからのカードが届いたのはその13日。申請書をすぐにJARLに届けたという。