JA3AA 島伊三治氏
No.21 大阪万博(1)
[開幕に間に合わない]
昭和45年(1970年)3月8日、大阪・千里丘。「日本万国博覧会」の開幕を1週間後に控えた会場を訪れた当時のJARLの原昌三副会長は、アマチュア無線記念局が置かれることになっているパビリオン・サンフランシスコ館の建設が遅れているのを見て愕然とした。「これでは開幕に間に合わないのではないか」とあきらめの心境だったという。パビリオンができなければ機器を置くスペースもない。さらに、アンテナの設置場所も決まっていなかった。
12日、会場周辺は雪がちらつく寒い日となった。午後、ようやくアンテナ支柱を建てる作業が始まった。盛土のため地盤は柔らかく工事は手間取る。当然のことながら工事は徹夜となり、完成したのは翌13日午前6時である。午後からは雪が積もり、受信機などを置く机も椅子も到着していない。午後7時半、支柱にアンテナを取りつける作業が始まった。完了は翌14日の午前2時。開会式が行なわれる当日であり、開幕日の前日であった。
記念局はJA3XPO。15日午前9時半。開幕に合わせて「CQ CQ JA3XPO ワールド エクスポジション」の第一声。とたんに国内外から応答があり、21MHzではWA6IVM、50MHzではJA3BTVが初交信の相手となった。次々と呼ばれ、開局まで苦労したハム達はその瞬間にそれまでの苦労を忘れたという。
万博記念局JA3XPOの記念QSLカード。
[JARLは記念局をあきらめていた]
昭和39年(1964年)の「東京オリンピック」開催は、太平洋戦争で疲弊したわが国が経済発展を遂げ、先進国の仲間入りをする入り口で行なわれたイベントであった。それに対して昭和45年(1970年)の「日本万国博覧会」は、すでに先進国の仲間入りを遂げ、高度成長を続けてきた日本が繁栄のピークに差しかかった頃のイベントであった。
それだけに、国民の気分も明るく「今後の日本は成長あるのみ」の雰囲気の中で開催されることになった。戦後の再開から発展を続けてきたアマチュア無線も、この世界的行事に参加することを検討した。1964年の「ニューヨーク世界博」や、1967年の「モントリオール博」では、大企業、行政機関、アマチュア無線組織がスポーンサーとなり、記念局が活躍していることをJARLは良く知っている。また、国内外のハムたちからも当然のごとく、記念局ができるものとしての問い合わせや、激励があった。
しかし、会場内に例えわずかなスペースを確保することも経費的に難しいことがわかった。世界的な大企業か、政府組織しかパビリオンオンを設けることができないことからわかる通り、参加費は莫大なものであった。加えて、もう一つ問題があった。万博の計画が進行するのにともない、会場内が電波の網で埋め尽くされ、とてもアマチュア無線が参入する環境ではないこともわかってきた。
万国博事務局はJARLからの問い合わせに対して「混信が心配であり、出展は止めて欲しい」と断ってきた。事実、万博のために使用される予定の電波は、20KHzから10GHzまでで、約400波。無線機の数は免許不要なものも含めると約1000局という。混信はいずれの電波にも深刻な影響を与えるが、万一VIP警護用無線機に妨害を与えたりしたら大きな事件になりかねない。
そこで、JARLは約1年間もの検討の結果、理事会の席で正式に出展取りやめを決めた。地元のJARL関西支部(支部長=JA3AV・辻村民之さん)では、出展に強い意欲を持っていたが、JARLの意向を知ってやはりあきらめることにした。それでも、何らかの方法を模索し続け、JA3XPOのコールサインを内々に電波監理局に保留してもらっていた。
各種のリグが揃った記念局のシャック。
[救いの神・サンフランシスコ]
1月になって、JARL関西支部内に万博会場内は無理でも別の場所、例えば関西支部の事務所でもやろうというという気運が生まれ、1月18日に開いたクラブ代表者会議の席でほぼその線で決まりかけていた。支部長の辻村さんは「事務所内なら特別に大きな設備変更も必要ない」とほっとしたという。
事態が急変したのはその翌日だった。大阪市の外事課から辻村さんに電話があり、万博に出展するサンフランシスコ市館がアマチュア無線局を管内に設けることを計画しており、その企画、運営をしてくれる組織を探している、という話しであった。びっくりした辻村さんはすぐに島さんに連絡し、2人で市庁舎に駆けつける。
見せられたのはサンフランシスコ市から大阪市宛ての電報だった。電文を要約すると「サンフランシスコ市館内に小規模なアマチュア無線局を設けたい。開局、操作してくれるアマチュア無線クラブはないか。日本政府が認めてくれるならば、世界の人々と交信することは万博の目的にも合致し、我々の目的にもプラスである」という内容だった。