[アンテナ問題解決] 

JARL関西支部では、大阪万博出展までのいきさつ、出展までの苦労、開局などをさまざまな形で記録に残している。島さん自身も日記風の記録を書かれているし、また、辻村支部長などとの座談会にも加わり、詳細に顛末を語っているが、それを読むと異常に冷え込んだその年の冬場の苦労が並々ではなかったことがわかる。

9日の夜、アンテナ設置の場所に困った島さんらは、万博協会に頼み込むしかないと判断し、建築課と土木課を回る。夜の8時、9時になっても土木管理課長は戻ってこない。約2時間待つと、雨に濡れた課長が寒そうに入ってくる。「話しは何や」と聞かれて、これまでのいきさつ、要はアンテナを建てる場所が欲しい、というと「いまさら何を言うのか、もう5本の指でも余る時期にきている。そんなことはサンフランシスコ館にいって断りなさい」と叱られ、取り付く島がない。

島さんは「あれは当然だった。追いこみで皆殺気立っている。課長は“わたし達は飯も食わんとこうして雨の中で仕事をやってきたのに・・・・”とまたおこられました。開幕直前になって急に計画にないものを建てたいなどと言い出したのは、我々だけだったと思う」と、当時を思い出していう。しばらくして、担当課長は利害で依頼しているわけではない、アマチュアの人に怒ってもしかたがない、と思ったのかどうか「よし、わかった場所をやろう」と言ってくれた。

島さんが「書類とか必要なものを出しましょうか」というと「いらん、やりなさい。わしがうんといったら、もう何もいらん」といい、サンフランシスコ館近くの場所を探してくれ「早くやりなさい。その場所に明日砂を入れたり、芝生を殖えたりする計画である。その後になると面倒だ。早いほうがいい」と注意してくれた。

次ぎの日、アンテナを建てる場所の図面を出してくれたが、その場所には地下ケーブルが通っており、水道管も埋設されている。アンテナの支柱であるパンザマストを建てるためには地中深く、しかもまわりも広く掘る必要があり、12日の晩から翌朝にかけての工事となった。

[開局準備] 

一方、局設備に関しては12日に電波監理局で送信機単体の検査を受け、翌13日に会場に運び込む。島さんは、無事に立てられたパンザマストを見て「うれしかった。これさえあったら何でもできる」と感動したという。ところが、依頼していた局設備の机、椅子、カウンターが届かない。周辺道路の交通マヒのため、ぜんぜん車が動かない。午後5時過ぎに届き、機器類を並べる。

その後、現場で電監の検査を受け、午後7時半に終了。開会式当日の14日早朝には3エレの八木アンテナも付き、翌日の開幕を前にぎりぎりの状態で準備が完了したことになる。すべて、綱渡りの準備であり、建設だった。島さんはいう「利害関係のないアマチュアの集まりだったからこそ、徹夜してでもと無理をしてくれたし、その意欲に関係者も動いてくれた」と分析している。

[記念局運用の苦労] 

ほとんど不可能と思っていた万博への参加を可能としてくれたのが、サンフランシスコ市からの提案であった。サンフランシスコ市がどうしてこのような提案をしたのか、島さんは次ぎのようにいう。「サンフランシスコ市と大阪市は姉妹都市。それに、電報をくれた市長室の広報部長であるロディさんはW6VCNのコールサインを持つハムだったことも関係していると思う」と。

この原稿を書くに当たって島さんは、ロディさんがどうしておられるか気になった。米国にも住まいを持ち、日米間を行き来している島本正敬(JA3USA)さんに依頼したところ、80歳となったロディさんは、西海岸でお元気なことがわかった。島本さんは、この万博の記念局の運営に、ビジターターながら熱心に協力、コールサインのUSAがコンパニオン達に好評で、ついにはその一人と結婚してしまった。今回のロディさん探しでは米国国内で大変な苦労をしたという。

開局前に起こった問題がオペレーターである。6カ月間の長期間にどのように人のやりくりをするかであった。ビジターよる運用、オペレーターと局の管理など大雑把にはJARL理事会に諮る時に決めていたが、その後の多忙さに具対的計画は後回しにされていた。オペレーターには日当を払うのは止めて、自分たちが手弁当でやる前提も決まっていたが、具体策は開会式の日の深夜に関西支部の事務所で決めた。

6カ月の長期予定はもちろん無理であり、当面1週間のオペレーターを決めるのに苦心した。さまざまな意見が出たが、最初はお互いが2週間に1回会社を休んでもらうことになり、その後、1週間に1回に変わった。当時の日本は高度成長時代であり、“猛烈サラリーマン”が評価された。週1回の休暇は取りにくい。ローティーションの維持が難しくなる。このため、島さんが仕事場に出勤すると、サンフランシスコ館から「今朝は誰もお見えになっていません」と電話がかかってくる。島さんはすぐに上司の所に行き「今日は休暇にしてください」と許可を得て、急いで会場に駆けつけることもしばしばあった。

夏休みとなるとビジターが急増し、列ができることもあった。

ビジターとしてマイクを握る小学生。右の母親もハムだった。