[来場者サインだけで1万人] 

期間中の運用周波数は、1.9MHz、3.5MHz、7MHz、14MHz、21MHz、28MHz、50MHzで、144MHzは、記念局がその場所で出すのはかまわないが、周辺で2波3波が出ると困る。そこで極力控えることになった。運用時間は基本的には朝9時から午後5時までだったが、途中から夜9時までに変更した。また、土曜日にはオールナイトをするようになった。

万博会場にはアマチュア無線機を含め、通信機器の持ちこみは禁止されていた。それも理由ではあったが、記念局を訪れてきたハムの数は多かった。記念局のビジターの運用は途中から始めたが、それ以前でも訪問者にはサインを依頼しており、その数は約13,900人に達した。サインをしなかった人もいたため、実際にはこの何倍かになったという。

ビジターによる運用は4月13日から始められた。最初からビジター運用は計画されていたが、リグが間に合うか、運用資格をどうするか、などがはっきりしていなかった他、電波障害が起きないかどうかが心配だったため、開幕約1カ月後になってしまった。ビジターが運用してトラブルが発生したら申し訳ないと慎重にことを運んだからであった。

期間中のビジターは3,500名。多い日は1日で67名があり、利用の多い50MHzのリグが空くのを列を作って並ぶということもあった。ただ50MHzはとびが悪いため、何度もCQを出しても応答がない。比較的近くのハムが何度でも応じていた。逆に、3.5MHzのシャックは空いており、JA1のハムにサービスするため、依頼されて3日間、通ってきたハムもいるなど多彩な運用振りであった。

大阪万博終了。サンフランシスコ館の「さよならパーティー」。右から2人目が原JARL会長、6人目が島さん、一人置いて館長。

[シャックに雨漏り] 

当時、海外との相互運用協定はなかった。また、第3者の伝言を取り次ぐ第3者託送もできない。訪ねてきた海外のハム達は当然のことながら非常に残念がった。また、オペレーター達が困ったのは雨漏りである。「サンフランシスコは雨が極めて少ない地域。その感覚で建物の設計が行なわれていたため、屋根にたまっていた水が一度に落下してきたことがあリました」と島さん。

いずれにしても、記念局は大成功だった。183日間の長期運用が終わり、QSOできた局数は合計36,746局。国外6,957局、国内29,789局。電信は4,580、電話が3,2165であった。島さんはこの記念局について「6カ月という初めての長期運用であった」「JARL会員すべてが運用できるようにした初の試みだった」そして「この時を境にして通信機が良くなった」と、総括している。

アマチュア無線機をメーカーが製造し、市販を始めてから約10年。回路技術などのハード面、また、デザイン面でも未熟なところがあった。記念局では各社の製品を大量に使用し、連日酷使した。メーカーの関係者もよく出入りし、その状況をチェックしていたため、その後の機器開発には多いに役立った。そして、もっとも大きな成果は社会に対して、アマチュア無線の存在を強くPRできたことであった。

大阪万博が終わった時、島さんは戦前からのハムの一人櫻井一郎(JA3AF)さんから「よくやった。良かったよ」といわれ、その一言がうれしかったという。大先輩である櫻井さんは記念局を計画したとき、心配して「止めておいた方がいいのでは」と親切に忠告してくれた一人であったからである。

記念局がとりもって、島本さんはカレン・ソフォロフさんと結婚した。その結婚式での2人と島さん(右)。

[ポーアイ博・花博] 

大阪万博のついでに、その後関西で開かれた2つの博覧会についても触れておこう。昭和56年(1981年)、神戸市が神戸港を埋め立てて造った人工島「ポートアイランド」を会場に開かれたのが「ポーアイ博」であった。JARL兵庫県支部が主宰し、神戸消防無線クラブが中心となって記念局8J3XPを運用した。地方博と呼ばれる規模の博覧会ではあるが、JARL独自のパビリオンでの参加は初めてである。

パビリオンといっても運搬用のコンテナを活用したものであり、開幕した3月から6月頃までは良かったが、夏になるとコンテナの鉄板が熱せられ内部は蒸し風呂状態となる。島さんは大阪にある空調機器メーカーにルームクーラーの寄贈を依頼しにいく。「担当者が熱心に空調の計算をしてくれ、最適なクーラーを提供してくれた」ことを思い出すという。

この時期、サンフランシスコから神戸までのヨットレースが行なわれており、記念局では連日ヨットと交信し、レースの状況を中継した。島さんは時には現場に行ったが「大阪万博の体験が生かされ、準備から開局までほとんど問題なく進んだ」という。8J3XPではQSLカードのコンピューター処理が行なわれたが、これは国内では最初であった。

平成2年(1990年)に大阪・鶴見緑地で開幕したのが「花博」であった。JARL大阪支部がやはり単独のパビリオンを出展し、8J90XPOを開局した。コールサインに2桁の数字が入ったのは初めてであリ、その後も無いという点で記録に残るものであった。島さんは「印象に残っているのは花博らしく、花をあしらったきれいなQSLカードを何種類も作ったこと」という。QSO数は約13万1000局であった。

花博で10万局交信達成の日、島さんもリグの前に座った。

なお、この間、奈良市で「シルクロード博」が開かれ、8J3SLKの記念局がおかれた。このように、過去あまり例のない半年間のロングラン記念局が4回も続けて運用できたことについて島さんは「万博の時の苦労がその後のバイタリティにつながった」という。