[活性化するJARL活動] 

平成12年(2000年)3月20日、JARL関西地方本部事務局で地方本部局JA3RL局運用委員会の解散式が行なわれた。昭和50年(1975年)11月に開局されて以来、25年後の廃局であった。関西地方本部の事務所は昭和38年に当時の近畿電波監理局内に仮事務所を設け、アマチュア無線局開局申請の審査業務などを行なっていた。その後、昭和44年(1969年)に大阪・天王寺区のJR環状線寺田町の近くに移転していた。

JARL会員が増加するのにともない、各エリア単位の支部活動も活発となってきた。このため各支部に事務局を設け、活動をしやすくするようにした。JARLの会員数は昭和34年(1959年)の4,001名が、昭和41年(1966年)には19,391名となり、5倍近くに膨れ上がっていた。地方事務局は大阪の電監内が第1号であったが、昭和42年(1967年)に東海地方本部(名古屋)事務局ができて以降、昭和49年(1974年)の関東地方事務局まで、10事務局体制が整った。

この間に、各エリア単位の支部は地方本部に名称が変わり、各県単位の支部制度となったが、地方事務局はエリア活動の拠点として徐々に会員の出入りも多くなっていった。中でも関西事務局はビルを1棟全て借り受け、会議室のほか、養成課程講習会を開くこともできるスペースをもち、活発に事務局を利用していた。

JARL関西地方本部局JA3RLのQSLカード。

[地方本部局JA3RLの発足] 

この事務局に本部局を設けようと話が出たのが昭和50年。島さんは「講習会などで従事者免許を取得した人にとっては、どのような機器があり、運用する周波数をどのように選んだら良いかなど知りたいことがたくさんある。新しい機器を並べ、運用委員が実際に実演しつつ教えることができれば、と計画した」と、約25年前を語る。

毎土曜日の午後、何人かの運用委員が待機し、通ってくる“ハムの卵”にていねいに教えた。週休2日制が広がっていってからは、日曜日を公開日とした。運用メンバーの確保について、島さんは「大阪万博での記念局の運用の経験から、協力を得られる」と確信していた。事実、廃局するまでの間に100名を越えるハムが運用委員として活動した。

教えを受けたハムの数は「残念ながら記録していない」(島さん)が、相当数の若者がJA3RL局で育っていった。また、同局は出力500Wで24時間の運用体制にあったこともあり、IARU(国際アマチュア無線連合)の日本のセンター局ともなっていた。開局から廃局までの25年間のうちの最初の20年間は、わが国のアマチュア無線数が増え続け、ピークを迎える期間に当たる。

そのため、通ってくる初心者でごった返した土曜の午後もあった。運用委員も多忙であったが、やがて仲間になる若者に教える喜びも味わった。現在、関西で活躍しているハムの少なからずの局が、今でもJA3RL局とその時の運用委員に感謝している。そのうちの一人である堀和男(JL3FIS)さんは、解散式を知り、地方本部に長いインターネット・メールを寄せてきた。

その中で、堀さんは「JA3RLは、開局間なしの新米のオペレーション技能を向上させるのには絶好の場所でありました。その頃ご指導いただいた経験が今もって大きく生きていることを実感している毎日です」とつづっている。堀さんは後に運用委員のメンバーとなって後進の指導に当たっている。

JA3RLで学んだ若いハムは多かった。多い日には場所が無くなった。

また、北大・大学院工学研究科の量子物理工学助手となり、札幌市に移り住んでいる稲垣克彦(元JI3XOK)さんは人を介して「今の私があるのも、まだ頭が柔らかいうちに技術屋としての心構えを当時JA3RLの運用委員をしていた先輩方に教わったからである」と伝えてきた。

[全国地方本部事務所の閉鎖] 

JA3RL局の廃局は、関西地方事務局そのものが6月に閉鎖されるためであった。趣味の多様化、携帯電話の普及などが原因となってハム人口は急速に減少、JARLの会員数も減りだした。このため、地方事務局の運営が難しくなり全国的に事務局は閉鎖されることになった。島さんは中心となってJA3RLを開局させたが、その後は後輩に任せた。それだけに事務局の廃止やJA3RL局の閉局は「やむをえないこととはいえ、真に残念だった」と未だに悔やんでいる。

島さんによると「昭和40年代の半ばにはJARL会員のうち25歳以下の若者が約半分を占めていた。その会員も現在では50代となり、30歳以下の構成比は激減してしまっている。原因はいろいろあるが、従事者免許を取得した後、実践する場がなくなったのも大きな理由」という。