[ハムは何をしていたのか] 

平成7年(1995年)1月17日午前5時46分、震度7の激震が神戸市、芦屋市、西宮市、北淡町、一宮町などを襲った。最終的には6,430名もの死者、43,800名の重傷者、249,000戸の全半壊被災住宅の被害となった。地震発生から数日間、アマチュア無線の波は被災地ではほとんど途絶えた。非常通信をやるべきハムがキーを叩かず、マイクも握らない。しかし、これをもってハムの怠慢ということではないことが後にわかってくる。

地震発生後、被災地のほとんどのハムは未曾有のできごとに呆然とし、事実を掌握するのにしばらく時間がかかり、全壊、半壊の家の中でまず、家族の安全を確認し、隣人、親戚、友人の確認情報を求めなければならなかった。場合によっては、倒れた家の下敷きになっているその人達の救助に走り回わらなければならなかった。

自身と、他人の生命を守るという最小限の仕事が終わり。まだ、家の中の整理が出来ていない中で通信をしようと崩れ落ちてしまったリグを探し出し、電源を入れようにも停電であったり、落下の衝撃で故障してしまっているケースも多かった。もっとも深刻であったのは仕事との兼ね合いであった。

官公庁、消防、警察、交通機関、電力、ガス、水道、報道など被災地に必要な仕事に従事している人はもちろん、ほとんどの仕事は災害時ほど多忙となり、逆に平時より人手が必要となる。仕事を放り出して非常通信にかかわることのできるハムは少なかった。阪神大震災で兵庫県のハムがどう活躍したかは、別の長谷川良彦さんの連載「社会に貢献するあるハムの人生」に詳しく書かれている。

阪神大震災の被害は甚大だった。住宅は倒壊しビルも中層破壊したり傾いた。

[近畿移動無線センターのMCA無線の活躍] 

当時、JARL関西地方本部長であった島さんは、同時に近畿移動無線センターのMCA事業部長でもあった。まず、MCA無線の活動について触れてみたい。当日、朝のテレビで地震発生を聞いた島さんは、動いていた近鉄電車で天王寺まで通勤できたが、その先はJRも地下鉄も不通。乗り換えの交通機関のない通勤者で周辺はごった返していた。

JR芦屋駅近くの店舗は、1階部分が押しつぶされて無くなった。

島さんは、運行していたバスと徒歩で、中央区城見の近畿移動無線センターに出社、運良く高層ビルのエレベーターの1台は動いていた。それより早く出社した社員は28階まで階段を昇らざるをえなかった。室内は机の引出しが開き、棚の書類は下に落ち、雑然としていた。集中監視装置などにより、管内8カ所のMCA制御局が異常ないことがわかり、さらに京都事務所経由で舞鶴局が、その後、淡路局も正常なことが確認された。

心配は停電のために神戸市鉢伏山にある神戸制御局の非常用発電装置の燃料であった。18、19日にそれぞれ途中まではバイク、山は徒歩で燃料を給油する。その一方で、広島のアジア大会で使用し、福岡ユニバシアード大会のために福岡に運ばれていたMCAハンディー機を空輸してもらうことにし、郵政省の許可を受ける。

翌日には110台のハンディ機が届き、全職員が貸出先との連絡、バッテリー充電、ID-ROMの書き込み、搬入などの作業を行なう。貸出し機はその後、各地区の移動無線センターやメーカーからの提供を受け、貸出し先は自治体10カ所、民間企業20社に増え、合計貸出し台数は1,143台に達した。

この年の7月に、近畿移動無線センターは「阪神・淡路大震災におけるMCA業務用無線」と題した報告書を発行している。報告はMCAを中心としつつも、放送、携帯電話、防災行政無線、パソコン通信、アマチュア無線などについても触れており、総合的な“災害時における無線通信のすべて”のような内容になった。このため、同報告書は全国の関係者から入手したいとの要望が多く、後に3版まで印刷している。

島さんは、勤務が終わるとJARL関西地方本部事務所に顔を出した。事務所では以前に取り上げた地方本部局JA3RLをセンター局に、長谷川さんの連載でも触れたように神戸市東灘区の富安大輔(JK3LFO)さん宅に設けられたJARL直轄局JA3YRLをサブセンターにして連絡網が設けられた。さらに、京都のレピーターJR3VUも富安さん宅に設置された。

ネットワーク網はYRL局の下に11局、さらにそこに貸し出した260台のハンディ機がつながった。非常通信の周波数帯は436MHz帯の3波。比較的空いている周波数を衛星バンドから選び郵政省から使用の許可をえて実施された。JARLから提供されたハンディ機のコールサインは8J3AAAから8J3AMTまでの332局に達しており「この特別指定のコールサインは非常通信が行われていることがすぐわかるため、効果的だった」と島さんはいう。

JARL関西支部の非常通信網

島さんは、これら一連の災害時の無線通信について「かつての非常通信とは異なる様相を見せた」という。従来の災害は郡部などが多く、まず、アマチュア無線によって第一報が入ることも多かった。それに対して「都市部での災害はテレビ、ラジオにより最初の報道がある」と分析し「状況に応じて、ハム個々が非常用通信すべきであるが、全体としては組織の力でネットワークを作り上げるべきである」と災害時の教訓を語っている。